前章「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1)」及び、「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (2)」では、「東洋高圧工業 (株) 千葉工業所」の開所から、「三井東圧化学 (株) 千葉工業所」を経て、現在の「三井化学 (株) 茂原分工場」への変遷について解説しました。この章では、「三井東圧化学専用線」(旧称は東洋高圧工業専用線) を中心にした三井東圧化学千葉工業所で行われていた鉄道貨物輸送について、設置の経緯や隆盛を極めた三井東圧専用線での鉄道貨物輸送が廃止に至った経緯について解説いたします。 付録「三井東圧化学専用線で見られた、入換機関車や貨車について」では、三井東圧化学千葉工業所で使用されていた、入換機関車 (スイッチャー) や私有貨車について紹介しております。また、付録「三井東圧化学 (三井化学) での鉄道貨物輸送について」では、三井東圧化学 (三井化学) で各工業所が所有していた三井東圧化学専用線での鉄道貨物輸送の詳細、三井東圧化学の物流子会社だった「(株) エム・ティ・ビー」などを解説しております。
1956年 (昭和31年) 8月8日、後に商号を「三井東圧化学 (株)」(現在の三井化学)に変更することとなる当時の「東洋高圧工業 (株)」は、国鉄の千葉鉄道管理局 (総武本線・成田線・外房線・東金線・木原線・内房線・久留里線を管轄) に対し「専用線敷設許可申請」を行いました。
当初の専用線の敷設の主な目的は、前章「東洋高圧工業千葉工業所から、三井東圧化学千葉工業所への変遷」で解説いたしましたが、道路事情の悪さから東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) の建設に必要な建築資材や機材の輸送が主となっており、輸送計画では東洋高圧工業千葉工業所の建設資材 (荷主は大成建設) が12万トン、工場完成後の製品の年間輸送量については1958年 (昭和33年) 8月の第3期設備操業を見込んで、メタノール、メタノールが1万2,500トン、化学肥料が6万1,000トン、アクリルニトリルが6,000トンとなっていました。 東洋高圧工業専用線 (三井東圧化学専用線) の敷設 1956年 (昭和31年) 9月11日、東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) の第一期工事が着工され、「東洋高圧工業専用線」 (後に三井東圧化学専用線と改称) は、翌1957年 (昭和32年) 3月23日に鉄道関連工事の分野に強く、現在でもJR東日本とのつながりが深い「東鉄工業 (株)」により、建設費4億6,380万円 (現在の価値で約8億6,803万円※1) を投じて着工されました。
着工区間は、東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) から最初の専用線所轄駅となる房総東線 (現在の外房線) の国鉄茂原駅 (現在のJR茂原駅) の側線までの距離は3.8kmとなり、同年10月5日に竣工しました。(茂原駅が起点となる、三井東圧化学専用線の旧ルートの詳細については、後章「三井東圧化学専用線 (茂原駅〜三井東圧化学千葉工業所間) [旧ルート]」で紹介)
東洋高圧工業専用線の敷設予定地の多くは戦後に茂原海軍航空基地の茂原飛行場エリア以外に入植した開拓農民が主な地主となっていました。このため、約3キロメートルの専用線の用地買収は1坪や2坪の地主が多く、100軒近くと交渉する必要があり、非常に苦労したと当時の雑誌のインタビュー記事 (※2) で社長が振り返っています。
貨物輸送の急増と伴う、入替機関車 (スイッチャー) の増車 1958年 (昭和33年) 7月18日に化学肥料の初出荷が行われ、東洋高圧工業専用線経由で48トン (トラックでは30トン) が茂原駅へ輸送されました。その後、東洋高圧工業千葉工業所の鉄道貨物輸送は、1961年 (昭和36年) に国鉄の千葉鉄道管理局内 (総武本線・成田線・外房線・東金線・木原線・内房線・久留里線を管轄) での1日平均発着トン数ベースの貨物取扱量が局内4位となる18万9千トンに達し、1965年 (昭和40年) には26万8千トンに増加していました。この急増により、当時茂原駅で扱われた鉄道貨物の7割近くを占めるまでになりました。(詳細については、後章「専用線所管駅「茂原駅」と三井東圧化学専用線について」で詳しく解説)
三井東圧化学千葉工業所内の貨車の入れ替えや茂原駅までの輸送を行うための入替機関車 (スイッチャー) は、当初、日立製25t機が1両のみでしたが、1969年 (昭和44年) 時点では、川埼車輛製12t機と東急車輛製12t機が増備され、計3台となっていました。三井東圧化学専用線の線路総延長は7.8kmとなっており、最高時速15キロで千葉工業所と茂原駅間を1日4往復 (不定期で2往復) していました。 三井東圧専用線によって行われた、原料の鉄道貨物輸送については付録「三井東圧化学千葉工業所で生産された主要製品について」の「東洋高圧工業 (株) 千葉工業所の主要原料とその調達先」で紹介、入替機関車については、付録「三井東圧化学専用線で見られた、入換機関車や貨車について」で解説しています。 鉄道設備の強化、構内軌道の増線 三井東圧化学は、貨物輸送量の急増に対応するため、千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の敷地内にある構内軌道を増線し、国鉄は茂原駅構内の側線の鉄道設備を増強しました。(茂原駅の改良については、後章「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」の「貨物発着量増加に伴う茂原駅の拡張」で詳しく解説) 東洋高圧工業千葉工業所の竣工から8年後の1965年 (昭和40年) と、18年後の1975年 (昭和50年) に三井東圧化学千葉工業所と改称された時点での構内軌道を比較すると、左側にある機回し線や留置線が増線されていることが分かります。
1975年 (昭和50年) 1月に撮影された三井東圧化学千葉工業所の航空写真からも、倉庫の隣、右上の空き地が化学肥料が積まれたパレットらしきものにブルーシートのようなもので覆われた野外肥料置き場となっており、左側に見える増設された機回し線には真新しいバラストや引上線、発着線、荷卸線などが増設され、多数の有蓋車やタンク車なども確認できます。
「地域間急行列車」による鉄道輸送の効率化 昭和30年代から昭和40年代 (1955年から1974年) にかけて、国鉄の鉄道輸送も全盛期で、取扱貨物が増加し、操車場では貨車の仕訳作業がひっ迫し、さらに貨車や貨物列車を牽引する機関車も不足するなど、慢性的な輸送力不足に苦しんでいました。そこで国鉄は1968年 (昭和43年) 10月に、貨物や荷物の到着日時が不明確な従来の「一般輸送力列車」とは別に、当時最新鋭の電算機 (コンピュータ) を導入して地域単位に貨車をまとめて1列車に編成し、到着日時を明確にした「地域間急行列車」を開始しました。(当時の鉄道輸送の状況については、ミニコーナー「昭和から令和への鉄道輸送、モーダルシフトと物流の主役への再興」で紹介) しかし、三井東圧化学は肥料の輸送量がわずかであり、出荷先も不特定多数であるため、到着日時が不確定でも、一般輸送力列車で十分だと認識していました。そのため、国鉄営業部が1975年 (昭和50年) 頃に三井東圧化学に働きかけ、地域間急行列車の導入を提案しました。
肥料の輸送に関しては、千葉県の外房線茂原駅宛 (三井東圧化学専用線経由で三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) および北海道の函館本線豊沼駅宛 (三井東圧化学専用線経由で三井東圧化学北海道工業所、現在の北海道三井化学本社工場) を利用し、硫酸の返空タンク車に関しては、岐阜県の神岡線神岡口駅 (後の神岡鉄道神岡線神岡鉱山前駅) 宛 (神岡鉱業専用線経由で三井金属鉱業神岡鉱業所、現在の神岡鉱業神岡鉱業所) で、導入されることになりました。
これにより、三井東圧化学千葉工業所では肥料および硫酸の在庫管理が容易となり、タンク車の運用効率が著しく改善されました。(硫酸輸送については、前章「日本の産業革命の礎となった「三井鉱山」と、鉱工業都市「大牟田」」内の「神岡鉱業専用線での硫酸輸送 (国鉄神岡線 / 神岡鉄道神岡線)」で解説)
茂原市内の慢性的な踏切での交通渋滞を解消するため、1978年 (昭和53年) 12月に、茂原駅高架化計画 (国鉄外房線連続立体交差事業) が発表されました。これに伴い、専用線所管駅は茂原駅から新設される「新茂原貨物駅」(正式名称は新茂原駅貨物施設) へ移管されることとなり、三井東圧化学専用線の移設が計画されました。(詳細については、後章「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」で解説)
1979年 (昭和54年) 12月に、三井東圧化学専用線の線路の付け替えや貨物施設の移設などの工事が着工され、1981年 (昭和56年) 6月に本納駅と新茂原駅との間に「新茂原貨物駅」が竣工し、同年12月1日から新茂原貨物駅の供用が開始されました。(詳細については、後章「三井東圧化学専用線所管駅「新茂原貨物駅」(新茂原駅貨物施設) の歩み」で詳しく解説)
年々減少した、三井東圧化学専用線による鉄道輸送 国内の物流において、かつて半数以上を占めていた鉄道輸送は、1965年 (昭和40年) 以降、トラックやタンクローリーなどの貨物自動車輸送が台頭し、急速に衰退していきました。(鉄道輸送については、ミニコーナー「昭和から令和への鉄道輸送、モーダルシフトと物流の主役への再興」で詳しく解説) 三井東圧化学では、千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) をはじめ、北海道工業所 (現在の北海道三井化学本社工場)、大船工業所、彦島工業所 (現在の下関三井化学本社工場)、大牟田工業所 (三井化学大牟田工場) でも三井東圧化学専用線を使った鉄道輸送が行われていましたが、1988年 (昭和63年) 時点では、千葉工業所と大牟田工業所のみが残り、三井東圧化学全体の輸送手段別の利用割合は貨物自動車が80%、鉄道はわずか5%となっていました。(詳細については、付録「三井東圧化学 (三井化学) での鉄道貨物輸送について」で、各工業所については、前章「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」で詳しく解説) 三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) は、三井東圧化学全体の鉄道輸送の約3%を占めていたと推測されますが、1969年 (昭和44年) に「東洋高圧工業」から「三井東圧化学」となって以降、貨物自動車輸送の割合が高まっていったようで、三井東圧化学専用線での鉄道輸送量は次第に減少しています。三井東圧化学専用線の貨物が多く占めていた茂原駅や新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設) では、1日の平均貨物輸送量は、茂原駅でピーク時には114万9,000トンとなっていましたが、新茂原貨物駅に移管された後では、48万4,000トンと半分以下となっていました。
以下の航空写真は、三井東圧化学千葉工業所の操業開始から7年後の1965年 (昭和40年)、17年後の1975年 (昭和50年)、25年後の1983年 (昭和58年) の構内軌道の変遷を示していますが、留置線や貨物ホームに並ぶ有蓋車やタンク車の数が減少していることが分かります。
三井東圧化学専用線で輸送されていた化学肥料の需要低迷 1970年代 (昭和45年〜昭和54年) は、日本が高度経済成長期に突入し、経済成長と産業拡大が進む一方で、大気汚染や水質汚濁などの深刻な公害、そして農業における化学肥料使用による土壌汚染などが社会問題化していました。千葉工業所の主力製品であった化学肥料は、オイルショックによる原料高騰や有機農業の普及による供給過剰などに直面し、利益率の高いCD-Rなどの光学ディスクやプリンターのトナーの原料などのファインケミカルへと生産品目が移行していきました。 このような背景から、1975年 (昭和50年) 頃には化学肥料の生産量が大幅に減少し、それまで三井東圧化学専用線を使用した化学肥料の鉄道輸送は、当時を知る物流関係者によると、三井東圧化学専用線が廃止される数年前には平トラックを使用した貨物自動車輸送に切り替えられ、製品倉庫から肥料袋をベルトコンベアーで平トラックまで移動させた後、人力で荷台に積み込んでいたとのことです。
1981年 (昭和56年) 11月、三井東圧化学は経営不振の化学肥料製造事業を本体から分離独立させ、「三井東圧肥料 (株)」(現在のサンアグロの前身) を新たに設立しました。各工業所の化学肥料プラントは新会社に移管され、千葉工業所の化学肥料プラントは「三井東圧肥料 (株) 千葉工場」となりました。北海道工業所や大牟田工業所の化学肥料プラントも、それぞれ「三井東圧肥料北海道工場」(北海道砂川市)、「三井東圧肥料大牟田工場」(福岡県大牟田市) として分離され、新設の「三井東圧肥料岩手事業所」(岩手県八幡平市) を加えた4工場体制でスタートしました。(当時の化学肥料市場や三井東圧肥料については、前章「国内トップシェアの化学肥料メーカー誕生から終焉まで」の「時代の変化と化学肥料産業の転換期」で詳しく解説) 国鉄の貨物輸送変革と三井東圧化学専用線の転換期 1984年 (昭和59年) 2月のダイヤ改正において、国鉄は貨物輸送の合理化を図り、コンテナ化による操車場の廃止や貨物駅の統廃合を実施することになりました。この改正に伴い、三井東圧肥料大牟田工場や三井東圧肥料岩手事業所は、1983年 (昭和58年) に化学肥料の輸送において、ワム80000などの有蓋車を使用した「車扱い※」から国鉄コンテナを使用した「コンテナ扱い」に切り替え、コンテナ輸送に移行しました。
一方、三井東圧肥料茂原工場は、新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設) がコンテナ荷役に対応していたにもかかわらず、前述の通り貨物自動車輸送への切り替えを行ったため、コンテナ輸送による鉄道輸送は行われることはなかったようです。(新茂原貨物駅の荷役設備については、後章「新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設) の駅施設・荷役設備の紹介」で紹介) 三井東圧化学専用線による、鉄道貨物輸送の終焉 三井東圧化学専用線を利用した三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の鉄道貨物輸送量は、新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設) へ移行後の1982年 (昭和57年) には、1日平均で約52万2,000トンを取り扱っていましたが、1990年 (平成2年) には約4,000トン前後まで落ち込んでいたと推定され、その貨物取扱量は新茂原貨物駅移行時の1%にも満たない大幅な減少となっていました。(詳細については、後章「「三井東圧化学専用線所管駅「新茂原貨物駅」(新茂原駅貨物施設) の歩み」の「短命に終わった、新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設)」で詳しく解説)
最後まで行われていたタンク車による原料の鉄道輸送も1995年 (平成7年) 10月1日のダイヤ改正で、新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設) 発着の定期貨物列車が運休し、臨時列車化したことで、三井東圧化学専用線は実質上の廃止となり、線路は全て撤去されました。前身の東洋高圧工業専用線として1957年 (昭和32年) 10月5日に竣工して以来、三井東圧化学千葉工業所の鉄道貨物輸送を担ってきた三井東圧化学専用線は約39年間の歴史に幕を閉じました。(三井東圧化学専用線の廃線後の様子については、後章「現役時代と廃線後の三井東圧化学専用線 (新線ルート) (1)」で紹介
次章「配線略図でみる、三井東圧化学専用線の変遷」では、三井東圧化学専用線の変遷に焦点を当てます。旧ルートは外房線茂原駅から三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) へ延びていましたが、新ルートは新茂原貨物駅 (正式名称は、新茂原駅貨物施設) から三井東圧化学千葉工業所に至っています。この変遷について、配線略図をもとに解説いたします。
|