前章「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」、「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」、「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」では、三井東圧化学 (株) (旧称は、東洋高圧工業) の成り立ちや歴史について解説しましたが、この章では三井東圧化学の主力事業所だった、三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) について解説いたします。 なお、三井東圧化学千葉工業所で生産された主要製品や、三井東圧化学専用線を通じて調達された原料については、付録「三井東圧化学千葉工業所で生産された主要製品について」で、千葉工業所の略史については、付録「三井東圧化学千葉工業所 (東洋高圧工業千葉工業所) 略史」をご覧ください。
5月には、茂原市に対し、工場用地となる茂原駅の北東部に位置する東郷地区の海軍茂原飛行場跡地 (茂原海軍航空基地) の約17万7,000坪 (東京ドーム約12.4個分※1) の取得申請を行い、6月に測量を実施しました。そして、9月11日の地鎮祭終了後に建設費8億6千万円 (現在の価値で51億7千万円※2) を投じ、のちの三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場となる東洋高圧工業千葉工業所の建設を着工し、第一期工事は大成建設が施工を行いました。 当時の茂原海軍航空基地の跡地は、茂原飛行場のコンクリート滑走路跡以外はほとんどが荒地や原野であり、しかも当時の大型重機はショベルカーなどが存在せず、ブルドーザーのみで、基礎工事は主に人力で行われました。(海軍茂原飛行場については、廃線・廃止になった鉄路「旧茂原飛行場と軍用引込線」で解説)
昭和30年代 (1955年から1964年) の茂原市の道路事情 工事現場となった海軍茂原飛行場跡地は戦後しばらく残存していたこともあり、建設が開始された1956年 (昭和31年) 9月時点では、「県道138号正気茂原線」や東京都内や京葉臨海工業地帯方面を結ぶ「県道14号千葉茂原線 (茂原街道)」や「国道128号線」から現場がある町保方面に向かうバイパス線である「県道84号茂原長生線」は存在しておらず、建設資材の搬入路は茂原中学校近くの旧海軍が使用していた橋 (旧富士見橋?) と旧町保橋の2箇所のみでした。(茂原市の主要道路については、前章「茂原市の歴史と成り立ちについて」の「江戸時代の交通の要衝、茂原」で紹介)
なお、現在はバイパス線の開通により一部が旧道化している「国道128号線」ですが、当時は茂原市を通る唯一の幹線道路であり、未舗装で路面状況が非常に悪かったため、夏季には海水浴客で大渋滞しました。このため、近年まで夕刊輸送はトラック輸送ではなく、定時性が保てる鉄道輸送が行われていました。そのため、東洋高圧工業専用線 (後に三井東圧化学専用線と改称) の当初の目的は建築資材の輸送が主であり、この専用線が完成する前は、建設資材を茂原駅まで貨車で運び、その後トラックで建設現場まで輸送していたと考えられます。(東洋高圧工業専用線については、「専用線所管駅「茂原駅」と三井東圧化学専用線について」でも解説)
苦難の連続だった、東洋高圧工業 (株) 千葉工業所の建設 第一期工事として着手された「メタノール工場」の建設では、大型で重量のある「メタノール合成管」(長さ10m・64トン) の輸送は、北海道室蘭市にある「日本製鋼所 (株) 室蘭製作所」から貨車で運ばれ、茂原駅からは道路にコロを敷いて人力で建設現場まで運ばれました。
輸送経路上にある東銀座商店街 (現在のサンシティ町保商店街) では、日中は人通りが多く作業ができず、夜に輸送作業が行われました。商店街を貫く「町保通り」(現在のサンシティ町保通り) は未舗装で区画整理前であったため、道路幅が狭く、雨天時はぬかるみ、輸送作業は困難を極めました。また、現在の三井化学茂原分工場の目の前を通る「県道138号正気茂原線」の町保橋 (新設) はまだ存在せず、老朽化していた旧町保橋の橋脚を補強して通過させたため、約1.4kmを作業員14名でのべ9日間を要し、大変な作業となりました。
1957年 (昭和32年) 10月5日に「東洋高圧工業専用線」(後の三井東圧化学専用線) が竣工すると、茂原駅から建築資材をそのまま貨車に積載した状態で運べるようになり、建設作業が大幅に効率化されました。この東洋高圧工業専用線を利用した建築資材の輸送は、生産設備の増強が続いていた1970年 (昭和45年) 頃まで行われていたようです。 (三井東圧化学専用線については、後章「三井東圧化学専用線で行われた、鉄道貨物輸送の歴史」で解説)
1957年 (昭和32年) 7月1日、「東洋高圧工業 (株) 千葉工業所」(後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) が正式に発足しました。そして、10月にはボイラー施設、東洋高圧工業専用線、事務所などが相次いで竣工し、11月1日には開所式 (ボイラー火入れ式) が執り行われました。
東洋高圧工業千葉工業所は、東洋高圧工業が1938年 (昭和13年) 10月に同じ三井鉱山系列でメタノール製造をしていた合成工業 (株) を吸収合併した以降では、1939年 (昭和14年) 10月に北海道砂川市の「東洋高圧工業北海道工業所」、1942年 (昭和17年) 4月に神奈川県横浜市の「東洋高圧工業大船工業所」に続く3番目の工業所として設立されました。(東洋高圧工業の沿革については前章「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」 で詳し解説)
当時の最新技術を導入した生産設備のため、千葉工業所の工場人員は、大牟田工業所 (現在の三井化学大牟田工場) の2,636名、前述の北海道工業所 (現在の北海道三井化学本社工場) の2,334名に対して628名となり、東洋高圧工業の工業所 (工場) の中で最も効率的で最新鋭の工業所となりました。 メタノール工場のファーストドロップから、初の化学肥料出荷まで 開所式の翌年、1958年 (昭和33年) 1月23日には、メタノール工場 (第1期事業計画) で最初の1滴 (ファーストドロップ) が予定通り確認され、総合試運転が無事に終了し、量産体制に移行しました。そして、31日には合成樹脂や接着剤などの原料となるメタノールの初出荷が行われ、その後2台のタンクローリーで東洋高圧工業大船工業所へと出荷されました。
2月には東洋東圧工業専用線 (後の三井東圧化学専用線) による原料の輸送が開始され、メタノール工場 (年産1万9,200トン) が本格的な操業を開始しました。これに伴い、各工場も次々と稼働し、生産設備 (プラント) の拡張も随時行われていきました。そして、7月18日には化学肥料の初出荷が行われ、出荷量は合計で78トンとなり、平ボディトラック6台で30トン、貨物鉄道輸送で48トンとなりました。
当初、正門前の道路は未舗装でしたが (後に現在の県道138号正気茂原線に指定)、後に舗装され、新設された「県道84号茂原長生線」と接続されました。これにより、茂原市の旧市街地を通らずに千葉市や東京都方面に向かう幹線道路である「国道128号線」や「県道14号千葉茂原線」(茂原街道) でのトラック輸送も容易になりました。
1954年 (昭和34年)、これまで主要製品だった化学肥料を生産する東洋東圧工業の主力工場であった「東洋東圧工業北海道工業所」(現在の北海道三井化学本社工場) や「東洋東圧工業大牟田工業所」(現在の三井化学大牟田工場) は、世界的に石炭化学から収益性の高い石油化学への転換が急速に進んだことにより、収益が悪化し始めました。 東洋東圧工業は、使用する原料を「石炭化学」である石炭・コークスから「石油化学」の石油や天然ガスへ転換し、製品も化学肥料から工業薬品や合成樹脂などの比率を高くするなど、赤字体質改善に取り組むことになりました。
後に「三井東圧化学」と改称する東洋高圧工業の6工業所の中で、唯一天然ガスを使用する「東洋高圧工業千葉工業所」(後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) は、石油を使用する大阪府泉北郡の臨海工業地帯にある「東洋高圧工業大坂工業所」(後の三井東圧化学大坂工業所、現在の三井化学大阪工場) と共に、新たな2大主力事業所として邁進することになりました。
昭和30・40年代初期の三井東圧化学千葉工業所の躍進
1954年 (昭和29年) には既に赤字に転落していた石炭化学が主体だった「東洋高圧工業彦島工業所」(現在の下関三井化学本社工場) のアンモニア合成 (日産60トン) とメタノール合成 (日産30トン) を行っていた生産設備 (プラント) は、東洋高圧工業千葉工業所のプラント完成後にすべて破棄されました。
また、東洋高圧工業千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) は、生産規模が縮小した東洋高圧工業北海道工業所 (現在の北海道三井化学本社工場) や東洋高圧工業大牟田工業所 (現在の三井化学大牟田工場)、東洋高圧工業彦島工業所 (現在の下関三井化学本社工場) から新たに人員を迎え入れ、規模と生産量が拡大していく最盛期を迎えることになります。
なお、出身工業所別従業員の比率などについては、前章「茂原市の人口増加のきっかけとなった、日立製作所と三井東圧化学」の「東洋高圧工業 (三井東圧化学) の進出と茂原市の人口増加の背景」で紹介しております。 1958年 (昭和33年) 7月、東洋高圧工業千葉工業所の尿素工場 (月産4,920トン/年産5万9,000トン)、硫安工場 (月産510トン/年産1万300トン)、アンモニア工場 (日産100トン/年産3万6,700トン) が、相次いで操業を開始しました。
1958年 (昭和33年) 8月にはアクリルニトリル工場 (日産20トン)、12月に青酸工場 (シアン化水素/日産5トン) が操業を開始しました。
なお、三井東圧化学千葉工業所で生産された主要製品や三井東圧化学専用線で鉄道輸送されていた原料の一覧については、付録「三井東圧化学千葉工業所で生産された主要製品について」で詳しく紹介しています。 生産設備の拡張が続いた、東洋高圧工業千葉工業所 1960年 (昭和35年) 12月には、東洋高圧工業千葉工業所のメタノール工場が拡張され、年産1万9,200トンから3万4,800トンへ増産されました。1961年 (昭和36年) までの設備投資は740億円 (現在の価値で約1,750億円※) となっていました。
その後も、1972年 (昭和47年) 2月にはアクリルアミド工場、3月に液炭工場、およびドライアイス工場が次々と竣工し、生産設備の新設と拡張が続き、これにより一大天然ガス化学事業所として発展していきました。 東洋高圧工業の利益の半分を生み出した、千葉工業所 東洋高圧工業千葉工業所の売上高は、1962年 (昭和37年) 度には73億8,400万円 (現在の価値で約168億円※)、1964年 (昭和39年) には、89億3,400万円 (現在の価値で約211億2,800万円※) に達し、これは東洋高圧工業 (現在の三井化学) 全体の利益の約半分を千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) が占めていました。
三井化学工業との合併、三井東圧化学の発足 1968年 (昭和43年) 10月1日に東洋高圧工業は、同じ三井グループの化学部門で赤字に転落していた三井化学工業 (株) を救済合併し、商号を「三井東圧化学 (株)」 に変更しました。なお、三井化学工業や合併の経緯などについては、ミニコーナー「三井化学工業の変遷と石油化学分野への展開」で詳しく解説いたします。
次節三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (2)」では、三井東圧化学千葉工業所から規模が縮小し、現在の三井化学茂原分工場に至った経緯について解説いたします。三井東圧化学専用線による鉄道貨物自体の減少やメタノール工場の操業停止など、生産規模が縮小した理由について考察しています。また、茂原分工場となった工場周辺の変化や以前は広大な面積を持っていた社宅地区の変貌、構内の軌道状況など、現在の様子についても紹介いたします。
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