前章「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」の「石炭化学から石油化学への日本のエネルギー転換と三井グループの戦略」で解説した通り、国際的に化学業界は昭和30年代 (1955年から1964年) から昭和40年代 (1965年から1974年) にかけて、石炭化学から石油化学へ急速に転換することとなり、この流れを受けて三井グループはのちに「三井化学 (株)」となる「三井石油化学工業 (株)」を設立します。しかし、後に合併し「三井東圧化学 (株)」となる東洋高圧工業 (株) と三井化学工業 (株) はこの変化に後れをとることとなり、三井グループ内でも対立関係が生まれることになりました。
三井石油化学工業は、エチレン系製品が全体の43.7%、芳香族系製品が23.7%、プリピレン系製品が27.8%、そしてその他の製品が4.8%の割合で事業を展開していました。
本社は東京都千代田区の霞が関ビルにあり、全国に4つの支店 (札幌、名古屋、大坂、福岡) と、山口県玖珂郡和木町には「岩国工場」と「総合研究所」、千葉県市原市には「千葉工場」の3つの事業所が設置されていました。1970年 (昭和45年) 現在、従業員の総数は3,244名で、男性が2,848名、女性が396名であり、平均年齢は30.8歳でした。
石炭から石油への先見の一手、三井化学の原点となった三井石油化学工業 設立当時はまだ石炭化学が全盛期であり、石油化学については将来の展望が不透明であったため、8社が共同出資し、リスクを分散させるために三井化学工業 (後の三井東圧化学) の子会社として三井石油化学工業を設立しました。現在、三井石油化学工業は1997年 (平成9年) 10月に「三井化学 (株)」と商号を変更し、日本を代表する大手化学メーカーの一つとなっています。(三井化学については、次章「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」の「大手化学メーカーの経営統合と三井化学 (株) の発足」で解説)
三井石油化学工業の創業当時の出資比率は、親会社の三井化学工業が株式の30%を保有し、残り70%は三井東圧など各社がそれぞれ10%ずつ持っていました。当初は、三井化学工業の石油化学部門として位置付けられていました。
三井石油化学工業の発展とコンビナート形成の歩み 三井石油化学工業は、1958年 (昭和33年) 4月に山口県岩国市および和木町、そして広島県大竹市にまたがる「岩国大竹地区」にて、三井石油化学工業岩国工場 (現在の三井化学岩国大竹工場) が竣工し、操業を開始しました。
1960年 (昭和35年) 12月、三井石油化学工業はアメリカのデュポン社との共同出資で「三井ポリケミカル (株)」(現在の三井・ダウ ポリケミカル) を設立し、1962年 (昭和37年) 2月に広島県大竹市の「三井ポリケミカル大竹工場」が操業を開始し、1967年 (昭和42年) 2月には千葉県市原市の「三井ポリケミカル千葉工場」も操業を開始しました。
1962年 (昭和37年) 2月には、三井石油化学工業が広島県岩国大竹地区で1956年 (昭和31年) 6月から建設を行っていた前述の三井ポリケミカル (株) と大日本化成 (株) とのコンビナートである、「岩国石油化学コンビナート」が竣工しました。
1967年 (昭和42年) 3月、千葉県千葉市から富津市にかけての東京湾臨海埋立地に位置する国内最大規模の「京葉臨海コンビナート」内に、「三井石油化学工業千葉工場」(現在の三井化学市原工場) が市原市で操業を開始しました。その後、前述の岩国工場と共に千葉工場も発展を続け、国際的な水準に達する工場規模となっています。
しかし、昭和40年代 (1965年から1974年) に入ると、三菱化成工業と住友化学工業が売上高800億円を超える中、三井系の三井化学工業と東洋高圧工業は2社合わせてやっと400億円に達する程度と低迷し、後発の子会社である「三井石油化学工業 (株)」(現在の三井化学) にも追いつかれる状態となりました。
この時期の国内の化学業界は、石炭化学から石油化学への構造転換が進行しており、この転換にいち早く成功した住友化学工業は急速に売上高を伸ばし、逆に出遅れていた三菱化成工業も転換が軌道に乗ると新規事業のアルミ精錬部門が成長し、住友化学工業に追いつき逆転しました。 三菱化成工業や住友化学工業は1社で総合化学会社として、化学肥料から合成樹脂などの生産を行っていましたが、同様に三井グループの総合化学会社である三井化学工業と東洋高圧工業は一部の生産部門が競合していたため、総合経営力の面で競争力が低下しており、そのため、当時の経済紙などでも三井系の化学部門の合併が取り沙汰されました。 三井グループ化学部門の内紛 当時の三井グループの化学部門は、三井鉱山系列の3社である「染料・医薬品・合成樹脂」を担当する三井化学工業、「化学肥料・合成樹脂」を担当する東洋高圧工業、「石油化学製品」を担当する三井石油化学工業、そして三井物産系列で1926年 (大正15年) に三井物産 (株) によって設立された「合成繊維」を担当する東洋レーヨン (現在の東レ) の4社に分極化されていました。
三井鉱山系の3社については、旧三井財閥直系の三井化学工業、化学肥料分野でトップシェアを持つ傍系の東洋高圧工業、そして石油化学製品分野で急成長を遂げていた子会社である三井石油化学工業という関係性で、お互いに牽制しあい対立構造となっていました。 この状況の中で、三井化学工業は本来の主力事業である工業薬品や染料などの有機合成部門よりも新規事業の合成樹脂部門に注力したことで、1961年 (昭和36年) をピークに赤字に転落しました。三井化学工業はこの赤字分を補填するため、国内最大の繊維メーカーであり、現在でも繊維メーカーとしてトップの地位を保つ「東洋レーヨン」(現在の東レ) に対し、同社がナイロン (商標アミラン) の原料として購入していた"石炭酸"の販売価格に赤字分を転嫁していました。
購入価格が割高と感じた東洋レーヨンは、石炭酸を生産していた三井化学工業大牟田工業所に社員を派遣し内部調査を行い、赤字分を補填していた石炭酸生産ラインのみがフル稼働していた実態を把握し、三井化学工業に対して当然の値下げを要求しました。しかし、三井化学工業は勝手に東洋レーヨンが社員を派遣し調査するのは何事だと開き直り、東洋レーヨンに対して「原料の出荷停止」を口にしました。
これにより、三井化学工業と東洋レーヨンの関係は悪化し、決裂に至りました。東洋レーヨンはこの経験から教訓を得て、原材料の調達先を同じ三井グループに限定せず、ライバル関係にある三菱グループの三菱化成工業などからも購入する複数購買体制に切り替えることとなりました。
また、三井化学工業は、同社の石油化学部門を担っていた子会社である三井石油化学工業との関係が更に最悪であり、原材料の売買から生産品目、導入技術について全てにおいて反目し、多くが生産品目で競合状態となっていました。最終的には競合品目については親会社の三井化学工業が撤退する事態となりました。
当初、三井石油化学工業の設立当時の1955年 (昭和30年) 時点では、筆頭株主である三井化学工業が株式の30%を保有していました。しかし、1966年 (昭和41年) に三井化学工業は株式を全て手放し、代わりに東洋レーヨンが株式比率を10%から21%に引き上げ、筆頭株主となりました。
さらに大赤字の三井鉱山も株式を手放したため、競合他社に株式が渡らないようにするため、三井物産も8%の株式を取得しました。このようにして、三井石油化学工業は、三井鉱山系から三井物産系へと株主構成が移行しました。 対立から協調へ、三井グループ総合石油化学計画 何とか巻き返しを図りたい三井化学工業は、東洋高圧工業に相談を持ちかけ、総合石油化学計画「堺泉北臨海コンビナート構想」を立案し、1965年 (昭和40年) 2月に東洋高圧工業と関西石油化学 (株) と連携して自社の石油化学部門として「大阪石油化学 (株)」を設立しました。そして大阪府堺市の泉北郡臨海工業地帯に「大阪石油化学泉北工業所」の建設に着手しました。なお、大阪石油化学泉北工業所の設置には、三井石油化学工業も協力体制に参画しています。
東洋高圧工業はこの計画を先行して1964年 (昭和39年) 2月に東洋高圧工業大坂工業所 (現在の三井化学大坂工場) を着工しており、同年11月に竣工し、一部操業を開始しました。1970年 (昭和45年) 9月には大阪石油化学泉北工業所の第一期工事が完了し、年産30万トンのエチレン工場が操業を開始しました。
次章「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」では、東洋高圧工業が三井化学工業と合併する経緯や、昭和40年代の化学業界の情勢を中心に探ります。立ち遅れた経営戦略や再建、組織変革から三井石油化学工業への統合、当時国内第2位となる総合化学メーカー「三井化学」の誕生経緯などを解説いたします。 また、ミニコーナー「化学メーカーのグローバル化と苦戦が続く、三井化学」では、三井化学をはじめ、現在のグローバル化の観点から国内化学メーカーが置かれた状況についても解説いたします。
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