前章「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」では、三井東圧化学 (株) の母体となった東洋高圧工業 (株) と三井化学工業 (株) の歴史について解説しました。この章では、東洋高圧工業 (後に三井東圧化学に商号変更、現在の三井化学) の工業所 (工場) で唯一天然ガスを利用していた東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) が、当時農業都市であった茂原市の海軍茂原飛行場 (茂原海軍航空基地) 跡地に設置された経緯について簡単に解説いたします。
史については、付録「三井東圧化学千葉工業所 (東洋高圧工業千葉工業所) 略史」をご覧ください。また、ミニコーナーとして三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) 設置前の茂原海軍航空基地 (旧海軍茂原飛行場) について、「「戦後の民間航空発祥の地」となった旧海軍茂原飛行場」として紹介いたします。
三井鉱山系列の東洋高圧工業 (株) は、1935年 (昭和10年) に福岡県大牟田市で操業を始めて以来、いわゆる「石炭化学工業」の企業であり、農業用肥料や化学製品の基礎材料となるアンモニアを石炭やコークスなどの固形原料から生成してきました。1950年代 (昭和25年から昭和34年) になると、固形原料から原油や重油などの液体原料への転換が世界的な流れとなり、「石油化学工業」が注目されるようになりました。 この流れを受け、三井グループでも化学部門を担当している「三井化学工業 (株)」(後に東洋高圧工業と合併し、三井東圧化学となる) が、1955年 (昭和30年) に日本で初の総合石油化学会社である「三井石油化学工業 (株)」(現在の三井化学) を設立し、同社を子会社としました。詳細については、次章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」の「石油化学工業への先行投資、三井石油化学工業 (株) の設立」で詳しく解説いたします。
東洋高圧工業は、「燃料油」として使用される重油、ガソリン、ジェット燃料油、灯油、軽油、ナフサなどよりもコストが抑えられる「天然ガス」に注目し、この天然ガスを原料とする新しい工業所 (工場) の設置を進めることになりました。(天然ガスについては、前章「"天然ガス"がもたらした茂原市の工業都市化」で解説)
帝国石油 (株) と日本の天然ガス採掘事情 東洋高圧工業は国内の天然ガス採掘源候補地として、北海道地区 (豊富村など推定517億立方メートル)、秋田地区 (秋田市など確定70億立方メートル)、新潟地区 (新潟市など推定340億立方メートル)、千葉方面地区 (推定1,000億立方メートル) など主要ガス田4地域を調査し、既に開発が進んでいる新潟地区 (新潟市) と豊富な埋蔵量を誇る千葉地区 (千葉市・茂原市) に絞られました。
千葉地区でも内陸部にあった夷隅郡大多喜町などでは小規模な採掘をしていたものの、茂原市を中心とする「茂原ガス・ヨード田」は日産3万立方メートルを採掘する「マル3計画」を「大多喜天然瓦斯 (株)」(現在の関東天然瓦斯開発) が始めたばかりで、新潟地区の1日数十万立法メートルの20分の1、3〜4万立方メートル程度の採掘量しかありませんでした。(「マル3計画」については、前章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3) [関東天然瓦斯開発]」で解説)
また、新潟地区での安定供給については、国内外で大規模な石油・天然ガス開発を行っていた大手の「帝国石油 (株)」(後の国際石油開発、現在のINPEX) が保証していました。
帝国石油は現在でも大手石油開発企業の一つで、1941年 (昭和16年) に政府半額出資で設立されています。この時点では、千葉地区はとても不利な状況でした。
戦後、当時の防衛庁 (現在の防衛省) は、関東一円に70箇所近くあった旧陸海軍の飛行場の一部を防衛上の観点から自衛隊基地に転用したいという意向がありました。しかし、ほとんどの飛行場は農林省 (現在の農林水産省) に移管され、多くは民間に売却され農地などに転用されていました。 千葉県茂原市東郷地区にあった茂原海軍航空基地、通称「海軍茂原飛行場」(敷地面積88万6,662u・東京ドーム約19個分※1) の跡地も、9割近くが農地や学校用地として売却済みでした。しかし、大蔵省 (現在の財務省) 関東財務局管理の国有地には戦後も使用可能なコンクリート製の滑走路が現存していたため、防衛庁の部外秘資料では有力な候補地とされていました。1954年 (昭和29年) 10月の新聞報道で、「防衛庁が海上自衛隊強化として航空三隊を新設し、予定地は大湊・茂原・佐世保」という記事が掲載され、茂原市で一大騒動と発展することになります。
この頃、茂原海軍航空基地跡地の「飛行場エリア」(下図参照) では、旧海軍軍人を主体とした飛行場跡開拓組合 (富士見開拓組合) が入植しており、開拓農民たちによって農地開拓が進められ、一部は東京農業大学茂原分校の農場 (現在の茂原樟陽高校の演習農場) となっていました。滑走路上では、1951年 (昭和26年) 12月に日本スポーツカークラブ (SCCJ) が主催したスポーツカー18台による3時間耐久レースが行われたり、その周辺の不整地ではモトクロスの競技会など、モータースポーツのレース会場として利用されていました。また、翌1952年 (昭和27年) 5月には日本航空 (JAL) が戦後初の民間パイロットの飛行訓練を実施していました。(詳細は、ミニコーナー「「戦後の民間航空発祥の地」となった旧海軍茂原飛行場」を参照)
また、「航空隊本部エリア」は住宅地や文教地区となっており、兵舎などを校舎として再利用した「茂原中学校」や現在は萩原小学校となっている「東京農業大学茂原分校」(のちに移転) などが開設されていました。新聞報道直後から、航空隊本部エリア内にある「茂原農業高校」(現在の茂原樟陽高校) のPTAで反対署名活動が行われ、茂原市教育委員会と市内小中高校校長らを中心とした「航空基地設置反対協議会」などが反対運動を行い、地元住民の反対集会なども活発化し、防衛庁と県庁へは開拓組合や婦人会などが陳情を行いました。
戦時中は基地に勤務していた軍関係者相手に商売をしていた飲食店、宿泊施設、小売店関係者の一部には商業地域に賑わいが戻り、活性化につながると賛成意見もあったものの、1955年 (昭和30年) 3月に茂原市議会は「旧飛行場復活反対決議」を全会一致で可決し、5月に反対運動の代表者43名がバスで国会に向かい、地元選出国会議員の立会いの下、当時の茂原市人口の約8割に相当する2万7,000名分の反対署名を防衛庁政務次官に提出し、防衛庁より飛行場設置断念の意向が伝えられました。 戦後、飛行場には米軍150名 (一説では600名とも言われる) が進駐し、1950年 (昭和25年) の朝鮮戦争勃発時には米軍基地への転用という話があったため、市は将来的にこのような話が再び出ないように、1955年 (昭和30年) 10月に市の責任で滑走路を取り壊しました。大量に出たコンクリート片については、この時代はアスファルト舗装がなく、道路はほとんど未舗装だったため、これらのコンクリート片を粉砕して砂利にし、市内の道路に敷くこととなりました。県内に砂利が採れる川がなく、また戦後不況の失業者対策などにも有効に活用されました。
候補地は臨海部の"千葉市"と内陸部の"茂原市" 従来の農業都市から近代工業都市化を目指していた千葉県茂原市は、海軍茂原飛行場跡地 (茂原海軍航空基地) に東洋高圧工業 (株) (後の三井東圧化学、現在の三井化学) を誘致する取り組みを始めました。当初、東洋高圧工業は千葉県内の工業用地取得については、既に「川崎製鉄 (株)」(現在のJFEスチール) や「東京電力 (株)」(現在の東京電力ホールディングス) などが進出し、「京葉臨海工業地帯」となっていた交通の便も良い千葉市の東京湾臨海部を有力な候補地としていましたが、誘致に熱心な内陸部の茂原市も候補地としていました。
しかし、有力な候補地とされていた臨海部では、埋め立て費用や漁業補償費、防波堤建設費などが非常に高額になると試算され、また漁業者や地元住民とのトラブルが懸念されました。一方で、茂原市は飛行場跡地ということで広範囲が田畑や更地になっていたり、茂原市の発展と雇用創出につながるなど地元住民や開拓農民の理解も得やすく、さらに南関東天然ガス地帯の中心地である「茂原ガス・ヨード田」は茂原市内にあるなど、内陸部の茂原市誘致に有利に働きました。(天然ガスについては、前章「"天然ガス"がもたらした茂原市の工業都市化」で詳しく解説) 不利な面も多かった内陸部"茂原市"への誘致 不安材料としては前述の通り、当時はまだ十分な天然ガス井の開発ができていなかったことに加え、昭和30年代 (1955年から1964年) では物流面においても臨海部と比較して十分でない状態でした。内陸地のため、東京湾に面した京葉臨海工業地帯のような原料や製品を輸送する臨海港は存在せず、近郊の九十九里浜には漁港はあるものの、遠浅のため臨海港を設置することはできませんでした。 当時主流だった鉄道輸送についても現在、外房線茂原駅を含む大部分は複線化されていますが、当時は単線であり、さらに大網駅から土気駅間に急勾配があり、一部の貨物列車は東金線・総武本線を経由して迂回する必要がありました。また、東金線は線路規格が低く、当時主流だった貨物用のD51形蒸気機関車や貨客両用のC58形蒸気機関車が入線できず、代わりに大正生まれの旧式化した8620形蒸気機関車を使用する必要がありました。(詳細については、付録「茂原駅で貨物入替作業で活躍した、入替機関車 (スイッチャー)」で解説)
トラック輸送についても、半島特有の「どん詰まり」という地理的要因が影響しており、特に茂原市を含む外房エリアは現在、東京湾アクアラインに接続する「首都圏中央連絡自動車道」(国道468号圏央道) など幹線道路が整備されていますが、当時は「国道128号線」しか存在せず、しかも未舗装であったため、砂埃が舞い上がり、夏季には海水浴客で大渋滞が発生するなど、道路事情が非常に悪かったため、夕刊の輸送に関しては2010年 (平成22年) まで、定時性を保つために鉄道 (総武線両国駅〜外房線千葉駅〜外房線安房鴨川駅間) が利用されていました。
工場用水についても、海軍茂原飛行場 (茂原海軍航空基地) 跡脇を流れる阿久川を含む二級河川の一宮川水系では十分な水量が得られず、農業では日本三大河川の利根川から引かれた「両総用水」を利用していました。そこで東洋高圧工業は「地下水」を利用することになり、茂原市と隣接している市原郡市津村奈良地区 (現在の市原市奈良) に6か所の井戸を掘削し、一旦貯水槽に貯めてから工場まで12kmの水道管で送水することになりました。
当時はまだ上水道が普及前で、多くの住民は自噴井戸を利用していましたが、新たな井戸により水が枯渇したり、水道管埋設地の土地所有者との交渉、丘陵地ということもあり難工事となるなど様々な問題が発生し、千葉県知事も視察に訪れるほどでしたが、1958年 (昭和33年) 3月25日より工場への送水が開始されました。現在は「房総導水路」が整備され、多くの工場は利根川から引いた水を長柄ダムに貯めて工業用水として利用しています。(現在も水源地として使われている奈良地区の住民に対し、三井化学茂原分工場の主催で毎年観桜会が行われています) 茂原市への工場誘致に千葉県も後押し このように、工業用地以外は不利な面が多かったのですが、当時千葉県は「京葉工業地帯建設構想に基づく京葉工業地帯総合開発計画」を立案し、臨海工業地帯の拡充と内陸地帯の開発にも注力しており、内陸部の茂原市にも「千葉県企業誘致条例」が適用されることになりました。 1952年 (昭和27年) 6月に施行されたこの条例は、資本金3,000万円 (現在の価値で約7,400万円※2) 以上で、従業員数が200名以上の企業を対象に、3年間にわたり道路整備の便宜または奨励金を交付する制度でした。条例施行後の10年間で300社以上の工場が県内に進出しましたが、主要な農漁業が不振で県の財政が赤字が続いていたため、実際にこの条例が適用されたのは、「東洋高圧工業 (株) 千葉工業所」(現在の三井化学茂原分工場) を含め、前述の「川崎製鉄 (株) 千葉製鉄所」(現在のJFEスチール東日本製鉄所)、「東京電力 (株) 千葉火力発電所」(現在のJERA千葉火力発電所)、後述する「(株) 日立製作所茂原工場」(現在のジャパンディスプレイ茂原工場) などの7社だけでした。
茂原市も東洋高圧工業の誘致を円滑にすすめるため、市税・工場用地・工場用水・電力・天然ガス・電話・住宅など優遇する「茂原市工場設置推奨条例」を適用しました。東洋高圧工業は、1955年 (昭和30年) 9月に茂原市に東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) を設置する決断をしましたが、この2つの条例が影響したのは間違いないと推測しています。この条例は後述する「(株) 日立製作所茂原工場」、同和鉱業系の「同和ジプサム・ボード (株) 茂原工場」も含め、計3社に適用されています。 1952年 (昭和27年) 7月に茂原市がこの条例が制定された背景には、同時期に手狭になった日立製作所茂原工場の新工場建設に関連しています。当時、手狭となった日立製作所茂原工場を都心に近く交通の便が良い神奈川戸塚市や東京都大田区への移転が検討されており、茂原市はこの移転を思い止まらせるため、茂原市に進出する企業を優遇するための当条例を制定しました。千葉県知事や茂原市長らは日立製作所本社を訪れ、社長や副社長らとのトップ会談を行い、茂原市残留を説得し、移転はせず日立製作所茂原工場 (早野工場) の拡張が行われた経緯がありました。(日立製作所茂原工場については、前章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (2) [日立製作所]」で詳しく解説) 東洋高圧工業千葉工業所 (三井東圧化学千葉工業所) の誕生へ 千葉県の茂原市によって海軍茂原飛行場 (茂原海軍航空基地) 跡地に誘致された東洋高圧工業 (株) (後の三井東圧化学、現在の三井化学の源流) は、1956年 (昭和31年) 9月11日に「東洋東圧工業 (株) 千葉工業所」(後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) の建設に着手し、第一期工事は大成建設が施工しました。
建設時や竣工後の東洋東圧工業千葉工業所の様子については、後章「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1)」(東洋高圧工業千葉工業所から、三井東圧化学千葉工業所への変遷) で詳しく解説いたします。
最大の懸念材料であったヨウ素を含む天然ガスの安定確保に関して、1956年 (昭和31年) 5月、東洋高圧工業 (株) は海軍茂原飛行場 (茂原海軍航空基地) 跡地で「マル3計画」として天然ガスの採掘 (日産3万平方メートル) を開始していた前述の「大多喜天然瓦斯 (株)」(現在の関東天然瓦斯開発) の株式75%を取得し、子会社化しました。社長には東洋高圧工業社長、副社長には大多喜天然瓦斯茂原鉱業所所長が就任し、大規模な天然ガス開発に着手しました。
東洋高圧工業 (後の三井東圧化学、現在の三井化学) と関東天然瓦斯開発の資本関係は、2002年 (平成14年) 3月まで続きました。なお、関東天然瓦斯開発及びマル3計画については、前章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3) [関東天然瓦斯開発 ]」で詳しく解説しています。 大規模開発「マル5計画」の実施 関東天然瓦斯開発は、茂原海軍航空基地 (海軍茂原飛行場) 跡地で行っていた天然ガス開発プロジェクト「マル3計画」をさらに発展させた「マル5計画」を新たに立案し、実施することになります。
「マル5計画」は、1957年 (昭和32年) 7月に立案しされた大規模天然ガス採掘の計画で、東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) の東部にある茂原市千町地区や九十九里浜沿いの長生郡白子町関地区、南白亀地区、福島地区などで、日産量を5万立方メートルとし、開発資金は約3億円 (現在の価値で約7憶2,000万円※1) を投じて、49か所のガス井を掘削する計画でした。
開発期間は1年で、翌年の1958年 (昭和33年) には、茂原市の「千町プラント」と白子町の「日当プラント」が完成しました。
2月には計画通り日産5万立方メートルを達成し、同年7月には日産13万立方メートルに達しました。
天然ガスの更なる安定供給 東洋高圧工業では他にも茂原市近郊の長生村にある「相生工業 (株)」(後の合同資源産業、現在の合同資源) から日産2万立方メートル、白子町の「日本天然瓦斯興業 (株)」(後の日本天然ガス、現在のK&Oヨウ素) から日産1万立方メートルの天然ガスをパイプラインを通じて調達し、安定供給を実現させました。
2023年 (令和5年) 現在、関東天然瓦斯開発とK&Oヨウ素 (株) は、茂原市に本社がある「K&Oエナジーグループ (株)」の連結子会社となっており、(株) 合同資源は、K&Oエナジーグループの筆頭株主となっています。(合同資源については、付録「工業都市"茂原"を形成した主要企業について [同和ジプサム・ボード ]」で解説)
東洋瓦斯化学工業の工業所 (工場) は新潟県新潟市にある「東洋瓦斯化学工業新潟工業所」だけで、一社一工場の体制でした。東洋瓦斯化学工業の本社は東京千代田区の霞が関ビル内にあり、1959年 (昭和34年) 9月現在で事務系54名、技術系261名の計328名の従業員が在籍していました。
東洋瓦斯化学工業 (株) 新潟工業所の立地と生産能力 東洋瓦斯化学工業新潟工業所は、工場用水が豊富な日本三大河川の信濃川に隣接しており、敷地面積は約9万3,000坪 (東京ドーム約6.5個分※2) ありました。この工業所は、1958年 (昭和33年) 8月に、新潟市網川原地区でアルミニウム生産を行っていた「日本軽金属 (株) 新潟工場」の隣接地に竣工しました。さらに、後に同じ三井系である電気化学工業 (株) (現在のデンカ) が「新潟セメントサービスステーション」を設置しました。このサービスステーションでは、電気化学工業青海工場から鉄道を使いタンク車でセメントを搬入し、サイロに貯蔵していた後、包装作業が行われていました。 東洋瓦斯化学工業新潟鉱業所では、前述の帝国石油から天然ガスの供給を受けてアンモニアを生成し、尿素や硫安の生産 (第1期設備) を開始しました。その後、1963年 (昭和38年) 4月にアンモニアの生産を倍増するために尿素設備を拡張 (第2期設備) し、さらに1966年 (昭和41年) 11月には化成肥料・石膏ボードの製造を行うための設備 (第3期設備) を設置しました。
鉄道輸送については、「日本軽金属専用線」(総延長11km) を電気化学工業と共に第3者利用していました。(地図:新潟南部S43・国土地理院)
こうして東洋高圧工業は、現在の日本の2大天然ガス地帯である、千葉県の「南関東ガス田」には東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場)、そして新潟県の「南長岡ガス田」には東洋瓦斯化学工業新潟工業所の2拠点に原料生産拠点を確保することとなりました。
戦後の日本は、GHQ (連合国軍総司令部) より一切の飛行を禁止されていました。その後、1950年 (昭和25年) 6月に飛行禁止は解除され、1951年(昭和26年)8月に「日本航空 (株)」(JAL) が設立されました。当初日本航空は、ノースウエスト航空に委託して「羽田〜大阪〜福岡間」を就航させました。その後、ノースウエスト航空に整備士養成のため、整備講習生を派遣しました。そして、日本航空は国際線の機長と新聞各社のパイロット要員の飛行訓練を行うことになります。 使用する飛行場は、コンクリート滑走路 (1200m*80m) がある前述の「茂原海軍航空基地」(海軍茂原飛行場) 跡地となり、ノースウエスト航空で研修を終えた2名の整備講習生が派遣され、飛行訓練機となる「セスナ140」(2機) の整備を担当しました。そして、1952年 (昭和27年) 5月15日に戦後初の民間パイロットの飛行訓練を実施され、7年ぶりに日本の空を日本人が操縦する飛行機が飛び立ち、日本航空史に新たな1ページを刻みました。日本航空はこの飛行訓練から2年後、戦後初の国際線となる「東京〜サンフランシスコ」間を就航させています
また、市の北西部の真名地区には1966年 (昭和41年) 3月創業の京葉航空 (株) (現在のNJA 新日本航空) の「茂原エアポート」(茂原離発着場) があり、九十九里方面などでエアロスバル (富士重工 F-200-160型) による遊覧飛行などを行っていました。現在、茂原エアポートは閉鎖され、飛行場跡地は真名カントリークラブになっています。
次章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」では、日本の化学産業転換期に初めて設立された日本初の石油化学会社である「三井石油化学工業」(現在の三井化学) や、三井グループ内の化学部門であった三井化学工業と東洋レーヨン (現在の東レ) との対立や決別、そして、三井化学工業と三井石油化学工業の間で起こった対立から協調への過程について解説いたします。
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