千葉県茂原市は、日本の一大工業地帯である「京葉工業地帯」の臨海部ではなく、内陸部に位置しています。しかし、なぜ内陸部において一大工業都市として発展したのか、「天然ガスの街」として知られる理由について簡単に解説いたします。 また、ミニコーナー「茂原飛行場から世界へ、幻の「国際飛行船航路網」計画」では、成田国際空港が設置される以前に戦前に茂原市の特産であった天然ガスを使用して、当時最新鋭の乗り物であったツェッペリン型大型旅客用飛行船の燃料である水素を製造し、茂原駅近郊に「茂原国際空港」を設置して、この巨大飛行船を3隻運用し、世界各国を結ぶ航路網を構築するという壮大なプロジェクトが推進されていたことを紹介いたします。
注目される千葉県の天然ガス、環境に優しいクリーンエネルギー 天然ガスは、地下深層部の鉱物の隙間に溜まっている「構造性天然ガス」と、地下浅層部のかん水に溶解している「水溶性天然ガス」の2つに分類されます。千葉県では後者の「水溶性天然ガス」が広範囲に分布し、地中に埋もれた有機物が微生物によって分解されて生まれたメタンガスが主成分となっています。 かん水から生産される消毒液などの原料となっているヨウ素 (ヨード) は、海藻など海産物に多く含まれています。前章「茂原市の歴史と成り立ちについて」で解説した通り、茂原市一帯がかつて海底にあったとき、海藻などの有機物が堆積し、古代海水ともいわれるかん水には通常の海水の約2,000倍ものヨウ素が濃縮され、現在は地下に埋蔵されています。
国内で最初に天然ガスが発見されたのは1596年 (慶長元年) に千葉県夷隅郡大多喜町とされており、最初の天然ガス井は1891年 (明治24年) に掘られ、現在は「天然ガス発祥の地」として記念碑が建立されています。 いすみ鉄道大多喜駅前に「大多喜町天然ガス記念館」(Googleマップ) があり、ガス開発の歴史から最新のガス設備の展示を行っています。
天然ガスは73〜93%のメタンを含む準石油ガスで、無色無臭無味で人畜無害です。燃やしても石油や石炭と比べると、地球温暖化や大気汚染等の原因になる二酸化炭素や窒素酸化物の発生が少なく、昨今の酸性雨の原因となる硫黄酸化物や煤じんの発生がありません。そのため、環境にやさしいクリーンエネルギーとされています。千葉県内では天然ガスが工業用と都市ガスとして利用されています。
天然ガスの街・茂原、天然ガスがもたらした地域社会への影響 茂原市は「茂原ガス・ヨード田」が分布しており、このガス田の発見のきっかけは1884年から85年 (明治17年から18年) 頃に田んぼで農業用水用の井戸を掘った際、湧き出したのは水ではなく「かん水」(水溶性天然ガス) だったという記録が残っています。その後、地元の名士である千葉天夢先生や地元の有志グループが複数のガス利用組合を設立し、小規模な採掘を行っていました。
また、電灯が普及する前の明治末期から昭和初期にかけて、既に茂原の市街地の一部にはガス灯が設置されており、外房線が私鉄だった房総鉄道の時代、茂原停車場 (現在の茂原駅) の照明はすべてガス灯で、真夜中に煌々と輝く駅構内に、人々は驚嘆したのではないかと思われます。現在でも、「天然ガスの街」のシンボルとして、茂原駅南口に2基8灯 (Googleマップ)、茂原駅東口に2基8灯 (Googleマップ) 、茂原市役所に3基9灯 (Googleマップ) が設置されています。
昔は、地震で生じた地表の割れ目をつたわって噴出した天然ガスが自然発火し、地元では「鬼火」とか「キツネ火」などと言われ大変恐れられていました。特に山間部の大多喜地区では山火事防止の為、採掘という事よりもガス抜きという意図が強かったように思います。1958年 (昭和33年) 頃、茂原近郊では庭や田畑で噴出した天然ガスをパイプで自宅内に引き込んで、約1,300戸ほどが光熱用に使用していました。
現在でも茂原近郊で自噴する天然ガスを自家用として使う場合、鉱業法の対象にはならず、トマス栽培などのビニールハウスの暖房やガスコンロ用の燃料として使用している農家やご家庭があります。また、茂原市と隣接している千葉市緑区には「土気 (とけ)」という地名があります。この地名は、かつて天然ガスを「燃ゆる気」と呼んでいたことが由来となっています。この名前が外房線の駅名となり、「土気駅」としても知られています。
昭和4年 (1929年)、理化学研究所の第3代所長であり、千葉県夷隅郡大多喜町周辺一帯を治めていた旧大多喜藩城主の子息でもあり、物理学者の大河内正敏博士の斡旋により、茂原・大多喜地区の天然ガス田の調査が、当時の商工省鉱山局 (現在の経済産業省) で行われ、良質かつ有望なガス鉱床と鑑定されました。
この調査結果に基づき、大河内正敏博士を中心に、日本初の天然ガス事業会社となる「大多喜天然瓦斯株式会社 (株)」(現在の関東天然瓦斯開発) が、大多喜町や町長個人なども出資し、1931年 (昭和6年) 5月に設立されました。 なお、幼少時代を大多喜町で過ごした大河内正敏博士は、田畑で作業をしていた農夫が昼食時に地面に小さな穴を掘って、そこから出てくる天然ガスを点火してお湯を沸かす光景をしばしば見ていたという逸話が伝わっています。(大河内正敏博士及び、関東天然瓦斯開発については、ミニコーナー「日立茂原工場の源流、理研コンツェルンが拓いた日本産業の未来」、後章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3) [関東天然瓦斯開発]」で、それぞれ詳しく解説) 茂原地区の天然ガス、本格的な埋蔵量調査から見えるその将来性 1936年 (昭和11年) 7月14日に、当時の商工大臣 (現在の経済産業大臣) が、現在カーボンニュートラルで再び注目されている天然ガスを原料にした、合成燃料 (当時は合成ガソリンと呼称) の工場設置のため、茂原市や大多喜町の天然ガスの採掘現場の視察に訪れていました。
戦後、燃料事情が逼迫したことにより、全国的に天然ガス開発の機運が高まり、東京からほど近い千葉はガス産地として注目度が増していました。商工省 (現在の経済産業省) はこの時、前述の大多喜天然瓦斯 (現在の関東天然瓦斯開発) が行っていた調査に助成していました。
1948年 (昭和23年) 4月に商工省地質研究所 (現在の国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター)、東京大学、大多喜天然瓦斯 (現在の関東天然瓦斯開発) の3者で、茂原市や大多喜町を中心とた地域で、大規模な天然ガス合同調査が初めて行われました。この調査で、千葉県内の埋蔵量は推定2,000億立方メートルであり、茂原市と大多喜町を中心としたエリアは県全域の約40%を占めていることが分かりました。
近年の最新調査では、茂原市には約1,000億立方メートルの採掘可能な埋蔵量があり、年間生産量で約600年分とされています。ヨウ素の産出量について、日本はチリに次ぐ世界第2位の主要産出国であり、国内においては千葉県で生産されるヨウ素が国内生産量の約80%を占めています。 日本のヨウ素の生産量は世界生産シェアの約35%を占めています。主要な産地である茂原地区は、ガス水比 (産出水量に対するガス量の容積比) が高く品質もよく、埋蔵量も豊富で鉱床の深度が浅く採掘に適したガス田となっています。
その中でも、1956年 (昭和31年) 9月に三井化学 (株) 茂原分工場の源流となる東洋高圧工業 (株) 千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所) が茂原海軍航空基地 (海軍茂原飛行場) の跡地に進出する際、前述の関東天然瓦斯開発 (株) を傘下に収め、海軍茂原飛行場跡地周辺や九十九里浜沿岸地区を中心に原料となる天然ガスの大規模開発に着手しました。また、茂原市近郊の長生村にある相生工業 (株) (後の合同資源産業、現在の合同資源) や白子町の日本天然瓦斯興業 (株) (後の日本天然ガス、現在のK&Oヨウ素) からもパイプラインを通じて天然ガスを調達していました。(詳細については、「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」で解説)
なお、関東天然瓦斯開発 (株) はK&Oヨウ素 (株) と共に茂原市に本社を置く「K&Oエナジーグループ (株)」の連結子会社となっており、合同資源 (株) はK&Oエナジーグループ (株) の筆頭株主となっています。(合同資源については、付録「工業都市"茂原"を形成した主要企業について [同和ジプサム・ボード ]」で解説) 茂原市の産業発展の基盤となった2大企業 戦前・戦時中には、茂原市の早野地区に(株) 日立製作所茂原工場 (後の日立ディスプレイズ茂原事業所、現在のジャパンディスプレイ茂原工場) が開設され、戦後は町保地区の茂原海軍航空基地 (海軍茂原飛行場) 跡地に東洋高圧工業 (株) 千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) が開設されました。偶然発見された天然ガスがきっかけとなり、現在も茂原市を代表する大手企業2社が進出し、茂原市の工業都市化への礎を築きました。
上記2社以外にも、液晶パネル製造のパナソニック液晶ディスプレイ (株) 茂原工場、半導体製造の東芝コンポーネンツ (株) 茂原工場、日立製作所茂原工場の流れを汲む蛍光表示管製造やホビー用ラジコンなどで大手の双葉電子工業 (株) をはじめ、関連企業などの中小の事業者の工場なども相次いで開設され、1972年 (昭和47年) 時点で市内の事業者数は224社、従業員数1万509人 (茂原市人口5万302人※1) 、年間の製造品出荷額は607億2,770万円 (現在の価値で約1,264億1,500万円※2) に達しました。
なお、三井東圧化学については後章「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1)」で、日立製作所茂原工場は「工業都市"茂原"を形成する主要企業について(2) [日立製作所]で、東芝コンポーネンツ茂原工場は「工業都市"茂原"を形成した主要企業について [東芝コンポーネンツ]」で、パナソニック液晶ディスプレイ (株) 茂原工場は「工業都市"茂原"を形成した主要企業について [パナソニック (PLD)]」で、それぞれ詳しく解説しております。 天然ガスがもたらした、産業の変遷と特徴 大手企業の事業所の進出に伴い、茂原市は田園広がる農業中心の街から、天然ガスで煙が出ない一大内陸工業地域へと発展し、当初は3万人弱の人口が市内への人口流入も急増して、10万人に迫る勢いとなっていました。
このように茂原市の産業の特徴は、天然ガスを「原料」として使用する三井東圧化学 (株) 千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) を初めとする「化学工業」と天然ガスを「燃料」として使用する (株) 日立製作所茂原工場 (現在は、ジャパンディスプレイ茂原工場) を初めとする「電気機械工業」が全体の87%を占め、この二つが顕著に現れていました。
次章「茂原市の人口増加のきっかけとなった、日立製作所と三井東圧化学」では、日立製作所茂原工場 (現在は、ジャパンディスプレイ茂原工場) と三井東圧化学千葉工業所 (三井化学茂原分工場) の進出により、茂原市における工業の発展と人口急増の背景について解説いたします。 また、ミニコーナー「茂原市の映画館、昭和から平成への変遷」として、三井東圧化学が当時行っていた福利厚生の一環として、毎月映画入場券を配布していた事例に触れ、かつて茂原市内に存在していた5つの映画館についても紹介いたします。
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