外房線 (JR東日本・千葉支社) ガイド・ファンサイト

〜 地元 「外房線」に関する歴史・車両などを紹介したサイトです 〜
トップ - 特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」(目次)
廃線・廃止になった鉄路
工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて (2)
茂原市の歴史と成り立ちについて

前章「三井東圧化学専用線が存在した工業都市「千葉県茂原市」」では、千葉県茂原市の概要について解説いたしましが、本章ではこの章では、茂原市の歴史について、縄文時代から昭和初期まで、工業都市としての発展以前の変遷について簡単に解説いたします。

また、ミニコーナーでは、鎌倉幕府が開かれる直前にかつて茂原市を訪れた源頼朝の伝説について、「茂原の古代伝承と歴史、源頼朝伝説と酒盛塚のマツ」として紹介しています。

かつては海の底だった千葉県茂原市

千葉県茂原市の語源となる「茂原」(MOBARA) は、かつては「藻原」(MOHARA) と表記されていました。この表記の理由は、地域の歴史に関連しています。

茂原市がある九十九里平野は、茂原貝層の発見により、紀元前8千年頃までは海であったことが分かっています。その後、茂原市一帯は土砂の堆積や隆起などにより、茂原低地が形成され、紀元前5千年頃に陸地化しました。

1930年 (昭和5年) 関東地方地形模型図 <抜粋>
(出典:日本地理風俗大系)

紀元前1千年頃の縄文時代前期に、現在は宮島遺跡が残る石神地区や下太田地区の丘陵地帯に、先住民族が居住し始めました。紀元前500年頃の弥生時代になると、宮ノ台遺跡が残る綱島地区などの一宮川流域で、稲作などの農業活動が行われていたことが近年の発掘調査で明らかになっています。

茂原 地形地域区分図 (茶エリアは縄文時代、緑エリアは弥生時代の居住地)
(出典:1:25,000 茂原 土地条件図-国土地理院 加工)

江戸時代中期に開発されるまでは、茂原市とその周辺は葦 (あし) や水草が生い茂る「藻の原」として知られ、沼が点在し湿原や草原が広がっていました。一宮川の北岸付近に土砂が堆積して陸地化した場所は「洲」(す・しま) と呼ばれ、ここが居住地域となっていました。

「茂原」の地名の由来

奈良時代の743年 (天平15年)、聖武天皇が墾田永年私財法 (開拓された土地が永久に私有地として荘園という形態で所有権が確立される法律) を公布し、777年 (宝亀8年)、後に上総介 (千葉県中部の実質の支配者) となる藤原黒麻呂が湿原の開拓を始め、荘園「藻原荘」(もはらのしょう) が現在の「藻原寺」(そうげんじ) の近くに確立されました。この藻原荘が現在の「茂原」(もばら) という地名の起源とされています。

藻原荘推定図 (赤破線) と旧市街地 (本町・昌平町・通街)
(※茂原市史では、藻原荘は本図よりも東寄りで茂原駅周辺の市街地を含むとされている)
(参考:史料が語る千葉の歴史60話/茂原市史) (OpenStreetMap加筆)

名刹「藻原寺」の門前町として最初の賑わい

鎌倉時代に日蓮聖人が、千葉県鴨川市にある日蓮宗大本山「清澄寺」で日蓮宗を開宗しました。布教のため、鎌倉に向かう途中に茂原を支配していた豪族の斎藤兼綱が最初の門徒となり、1220年 (承久2年) に布教活動の拠点として妙光寺を建立しました。後にこの寺は、江戸時代に現在の日蓮宗東身延「藻原寺」(Googleマップ) と改名されました。

江戸時代の藻原寺 (木版図・寛政年間 1789-1801)
(藻原寺所蔵)
藻原寺の本堂と山門
<AI Colorized> (出典:写真で見る日本)

江戸時代の1559年 (永禄2年)、藻原寺の南東付近に現在の本町となる「本宿」が開かれ、商家を中心とした最初の街が形成されました。この本宿が手狭になると1602年 (慶長7年) に現在の昌平町となる「新宿」が開かれ、さらに1689年 (元禄2年) には現在の通町となる「新町」が開かれました。これらのエリアは、現在は茂原市の旧市街地となっており、藻原寺の門前町として繁栄しました。

[江戸時代] 本宿 (本町)新宿 (昌平町)新町 (通町) の鳥瞰図
(画像出典:「もばら風土記」より加筆)
(左手が藻原寺方面、新宿橋極楽橋は現在の昌平橋・亀齢橋だと思われる)

この時代には、近隣地域でも新田開発が進み、現在も地名として残る「早野新田」や「千町新田」(茂原市千町) などが開かれました。

400年以上も続く、茂原の「六斎市」

安土・桃山時代、豊臣秀吉によって国替えを命じられた徳川家康は、1590年 (天正18年) 8月に江戸に入り、徳川十六神将の1人である家臣の大久保忠佐 (大久保治右衛門忠佐) に茂原藩、上総国藻原5,000石 (現在の価値で年収1億5,000円) の領地である茂原村・高師村・木崎村 (現在の茂原市八千代・高師・木崎周辺) を与えました。江戸時代に入り、1601年 (慶長6年) 2月には関ヶ原の戦いの論功行賞として、1万5,000石が加増され2万石 (現在の価値で年収4億5,000円※) となり、沼津藩 (静岡県沼津市) へ国替えとなりました。これにより茂原藩は廃藩となりましたが、茂原の領地は引き続き、大久保忠佐が支配していました

大久保忠佐
(画像出典:「日光東照宮徳川二十将図」より)
五ケ村組市場

1606年 (慶長11年) 2月上旬、大久保忠佐は幕命に従い、東上総地域 (房総半島の東部) に下向し、家康の御小姓である三浦重成 (通称: 作十郎 / 三浦監物重成) の支配地域であった本納村 (現在の茂原市本納) に本陣を設け、周辺の各村を巡察しました。この過程で本納村、茂原村 (現・茂原市)、長南村 (長生郡長南町)、一之宮村 (長生郡一宮町)、大網村 (旧・山武郡大網白里町 / 現・大網白里市) の5つの村に江戸幕府公認の「組市場」が組織されました。

この組市場は商業組合や商人集団によって運営され、商品の取引に関する品質管理、価格調整、商業規則の制定・執行などが行われた市場でした。なお、東上総地域の組市場の開設年については所説あります。また、江戸時代に日本各地で毎月6回行われた定期市場が「六斎市」 (ろくさいいち) と呼ばれ、本納村では1と6がつく日、長南村では2と7がつく日、大網村では3と8がつく日、茂原村では4と9がつく日、一之宮村では5と10がつく日に市が立ち、場所は茂原村では現在の旧市街地となっている本宿 (本町)、新宿 (昌平町)、新町 (通町) でした。

1930年 (昭和5年) 頃の六斎市 <通町>
<AI Colorized> (出典:ふるさと茂原のあゆみ)
1980年 (昭和55年) 頃の六斎市 <昌平町>
<AI Colorized> (出典:日本瓦斯協会誌)

茂原の六斎市は、九十九里浜で産出される「海産物」と「塩」、内陸部で収穫された「農産物」の交易場として機能し、江戸街道や他の主要な街道が交差する地域として海岸地帯と内陸部の接点で重要な役割を果たしていました。昭和時代に入っても、茂原では市が継続して開かれ、賑わいを見せました。露店では植木、野菜、果物、干魚などが販売され、茂原は長生地域の物流拠点として繁栄しました。(江戸街道などについては後述)

2023年 (令和5年) 現在でも、昌平町ではこの六斎市が定期的に開催され、茂原の名物となっています。詳細については、茂原市役所HPをご覧ください。

江戸時代の交通の要衝、茂原市

江戸時代、長生地域で採れた農作物や九十九里浜で得られた海産物は江戸 (東京) へ盛んに送られ、人の往来が多かった通称「江戸街道」または「茂原道」とも呼ばれる主要街道 (赤線) が存在しました。この街道は、一宮方面から茂原市を経由し、二宮神社南・旧二宮小西の国府関 (こうせき) を通過し、難所の鼠坂がある道で、長柄町の道脇寺南・六地蔵・追分を経由して、市原市の潤井戸を通り、東京湾沿いの千葉市・船橋市・市川市の行徳を経由して東京に至る経路でした。国府関から潤井戸までは山道であったため、途中で野生の馬に出くわすこともあり、危険なこともあったと伝えられています。

[地図A]
1931年 (昭和6年) 江戸街道地図 (赤線)
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると表記無し画像に切り替わります]
緑線は江戸時代の主要道、高師から国府関と茂原駅付近の水色実線は、現在の県道14号線及び県道41号線
水色点線は戦後に作られた旧国道128号線、水色破線は国道128号線バイパス、水色丸は後の新茂原駅
大日本帝國陸地測量部 五万分の一「茂原」(昭6) 加筆

江戸時代初期から、農家の副業として作られた名産の上総木綿、菅笠、鋳物、酒なども、この江戸街道を通じて江戸に送られていました。

上総木綿 (見本より)
<AI Colorized> (出典:明治百年日本伝統色)
1911年 (明治44年) 頃の上総木綿の織り屋 [長生郡内]
<AI Colorized> (出典:千葉県百年のあゆみ)

現在、江戸街道 (赤線) として知られていた茂原から館山間は、伊南房州通往還としても知られ、「国道128号線」の一部に組み込まれています。茂原市内では、かつての田畑が文教地区、住宅地、商業地などに変わり、区画整理が進行したため、江戸街道の一部 (桃点線) が消失しています。橙線は戦後に整備された国道や県道を示し、江戸街道の北側には新しい道路が建設され、ショッピングセンター「アスモ」の近くで終点となる「県道14号千葉茂原線」(水色線) が、この新道に沿って整備されました。江戸街道の新道から「アスモ」近くまでの区間は、「県道402号長生茂原自転車道線」(橙点線) の一部となっています。

2016年 (平成28年) 茂原市の主要道路
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると表記無し画像に切り替わります]
国土地理院「茂原」(平28) 加筆
江戸街道 (赤線) の一部は消滅 (桃点線)、緑線は江戸期の街道、橙線 (点線) は戦後に整備された国道県道
国道128号線 (水色点線は旧128号線) / 国道409号線 / 国道468号圏央道 (首都圏中央連絡自動車道) /
県道13号市原茂原線 / 県道14号千葉茂原線 /県道27号茂原大多喜線 / 県道41号茂原停車場線 /
県道84号茂原長生線 / 県道138号正気茂原線 / 県道293号茂原環状線 / 県道402号長生茂原自転車道線
(標識画像及びリンク先:Wikipedia)

江戸時代に栄えた宿場町「高師」と「江戸街道」

外房線茂原駅の北側に位置する茂原市高師地区は、1881年 (明治14年) に茂原村と合併する前は高師村として知られていた地域で、合併後は茂原町 (現・茂原市) の一部となりました。この地域はかつて、東金・木更津・九十九里浜方面へ通じる街道や道路が交差する外房地区の交通の要所でした。江戸時代には高師村の中心に宿場町「高師駅」が設けられ、高師観音 (Googleマップ) と高師八幡神社 (Googleマップ) の間には旅行者が駅馬を乗り換える馬継場が存在しました。高師観音の近くには「釜屋」という大きな旅館や、旅行者向けの多くの商店が建ち並び、宿場町としてとても栄えていました。

1886年 (明治19年) 頃 茂原町中心部 (青表記は現在の建造物)
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると表記無し画像に切り替わります]
房総鉄道茂原停車場 (現・外房線茂原駅) 開業前、明治期に江戸街道の北側に直線化した新道が出来ている
明治期迅速測図 加筆

現在の高師中央公園付近にあった三角山 (御帝山: みかどやま) には、「正面江戸道 右一ノミや 左九十九里」と刻まれた道標が存在していましたが、現在は高師中央公園内 (Googleマップ) にに江戸街道に関する案内板とともに礎石 (モニュメント) が設置されています。また、案内板に江戸街道の目印として記載されている二宮小 (地図A) は、現在は南に移転しているため、探索する際にはご注意ください。

三角山の道標 <明治期> 現在の茂原市高師地区
<AI Colorized> (出典:茂原市史) (:江戸街道 / :古道 / :新道)
国土地理院「茂原」(平28) 加筆

江戸期の江戸街道の茂原市内を通る経路 (以下のリンク先はGoogleマップ) は、大芝から落合橋を渡り、野巻戸 (小湊鐡道バス茂原車庫付近) から三角山前 (高師中央公園付近)、高師観音前、高師八幡神社南、旧道表橋 (茂原地方合同庁舎前の駐車場付近)、酒盛塚 (茂原高校前庭付近) から、国府関へ向かうものでした。

[地図B]
1931年 (昭和6年) 茂原町中心部
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると表記無し画像に切り替わります]
赤線は江戸街道 (点線は消滅、破線は旧道化)、は江戸街道新道 (点線は消滅)
黄緑線は街道 (点線は消滅)、緑点線は消滅した道、水色は新道、橙線は現在ある建築物や社屋
大日本帝國陸地測量部 五万分の一「茂原」(昭6) 加筆

明治期になると、1873年 (明治6年) に茂原尋常高等小学校 (現・茂原小学校)、1897年 (明治30年) に房総鉄道茂原停車場 (現・JR外房線茂原駅)、1899年 (明治32年) に千葉県立農学校 (旧・茂原農業高校 / 現・茂原樟陽高校) が開校・開業したことにより、江戸街道の一部は農学校や小学校の敷地の一部となり、消滅しました。

1868年 (明治初年) 野巻戸辺りの油絵 (赤矢印付近?) 昭和期の酒盛塚
<AI Colorized> (画像出典:もばら風土記) <AI Colorized> (画像出典:茂原市中央の発達史)
標柱には「従是西千葉県上総国長柄郡茂原町」とある 右手が東京方面、手前の道は新道への連絡道と推定

なお、「酒盛塚」の地名の由来については、鎌倉幕府を樹立した源頼朝が関わった伝説があります。詳細については後述のミニコーナー「茂原の古代伝承と歴史、源頼朝伝説と酒盛塚のマツ」で説明します。

活況を呈した茂原繭市場

当時の長生地域では、米作りと同様に養蚕業も盛んで、1921年 (大正10年) に「有限責任 長生郡販売購買利用組合」(組合員3,644名) が設立され、茂原駅前 (現在の東口付近) に「長生乾繭市場」(通称・茂原繭市場) が開設され、隣接する茂原駅からの出荷も活況を呈しました。

1926年 (大正15年) 頃の長生乾繭市場外景
<AI Colorized> (画像出典:千葉縣之繭市場)
茂原繭市場全景、右に乾繭工場 (繭乾燥設備) の煙突が見える
<AI Colorized> (画像出典:茂原市中央の発達史)

茂原繭市場は、千葉県内で佐原繭市場 (香取地域・佐原市) と並ぶ一大市場となっていました。

1940年 (昭和5年) 茂原繭市場の取引価格 (※)
(一貫目・3.75kg)
(参考:茂原の昭和史)

(※:日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)
茂原繭市場 繭取引高の推移 (※) (参考:続長柄町史)

茂原繭市場の賑わい
<AI Colorized> (画像出典:千葉県のあゆみ)
茂原繭市場、大正期の繭取引の様子
<AI Colorized> (画像出典:千葉縣之繭市場)

繭は麻袋に詰められ、「鉄砲籠」と呼ばれる竹製の籠に収められ、主な出荷先として製糸業が盛んだったの中央本線の岡谷駅 (長野県岡谷市) まで鉄道輸送されていました。千葉県内からは茂原駅の他、本納駅や総武本線の八街駅からも出荷され、1926年 (大正15年) の実績では年間3,010トンが運ばれ、岡谷駅には千葉や茨城を中心に全国から年間7万3,243トンの繭が着荷していました。

明治末期から大正初期の岡谷駅
<AI Colorized> (画像出典:玉川こども百科)
1936年 (昭和14年) の岡谷駅
<AI Colorized> (画像出典:長野県民100年史)

市町村合併で誕生した茂原市

茂原村は1881年 (明治14年) に近隣の10村を吸収合併し、茂原町となりました。そして、1952年 (昭和27年) 4月に茂原町と豊田村、二宮本郷村、五郷村、鶴枝村、東郷村 (一部) の1町6村が合併し、現在の茂原市が誕生しました。

1955年 (昭和30年) 頃の茂原市
<AI Colorized> (画像出典:日本展望)
左:当時の茂原駅は南総鉄道の始発駅、町内には上総高師駅や藻原寺駅があった農学校は移転前の茂原農業高校 (現・茂原樟陽高校)、東部は針葉樹林や荒地 (湿地) が広がっていた
1931年 (昭和6年) 茂原町 (現在の茂原市中心部)
大日本帝國陸地測量部 五万分の一「茂原」(昭6)

その後、1959年 (昭和34年) には長南町の一部が編入され、1972年 (昭和47年) には本納町も編入され、現在に至っています。

茂原市と本納町の合併を報じる市の広報誌
<AI Colorized> (画像出典:広報もばら)

"食虫植物の楽園"から、"天然ガスの街"へ

昭和初期まで、茂原駅 (茂原市) から八積駅 (長生郡長生村) にかけて、広大な低湿地が広がっており、この地域は「茂原・八積湿原」として知られていました。また、この湿地は県内唯一のコケ植物である「フナガタミズゴケ」が自生する貴重な地域でもありました。

1914年 (大正3年) 茂原町周辺
尼ヶ台総合公園は岩沼駅 (現・八積駅) の左上にある新田付近、本納から茂原を経由して一宮へ向かう道が現・国道128号線、茂原から左下の長南へ向かう道が現・国道409号線、茂原から左上に伸びる道が茂原街道 (現・県道14号千葉茂原線)
大日本帝國陸地測量部 五万分の一「千葉」(大3)

元々、茂原駅は町外れに設置され、当時の駅周辺は茶畑、荒地、そして湿地帯が広がっていました。

1930年 (昭和5年) 頃の食虫植物群落地 (茂原市内の低湿地)
<AI Colorized> (画像出典:日本地理風俗大系)

また、茂原市には国指定天然記念物であるヒメハルゼミが生息する八幡山に自生する「八幡山食虫植物」や、隣接する長生郡長生村には一宮川が流れ込む九十九里浜近辺で見られる「一松村肉食植物」が、県指定天然記念物に指定されています。茂原駅から東側は湿生・食虫植物の宝庫として知られていました。

1934年 (昭和9年) 頃の七村堰の水湿原野と驚海岸の海浜植物群落地 (長生村)
 <AI Colorized> (画像出典:史蹟名勝天然紀念物調査)

日本の植物学の父と称され、2023年度のNHK連続テレビ小説「らんまん」のモデルとなった植物学者・牧野富太郎博士は、1931年 (昭和10年) に茂原・八積湿原を訪れ、「まさに植物の宝庫である」と絶賛し、その後何度も再訪していました。しかし、1950年代後半 (昭和30年〜昭和34年) になると、灌漑 (かんがい) による乾燥が進行し、特産の天然ガスを利用する工場が多く進出したため、低湿地は工業用地化 (双葉電子工業長生工場など進出) および宅地化 (茂原市東部台) が急速に進み、低湿地の面影はほとんど見られなくなりました。(天然ガスについては、後章「"天然ガス"がもたらした茂原市の工業都市化」で解説)

1973年 (昭和48年)、絶滅危惧種の保護と自然環境保全のために、一部の食虫植物は、低湿地の一部だった長生郡長生村の尼ヶ台関に造成された「尼ヶ台総合公園 (長生村役場HPの案内) 内の湿生植物園に移植されました。

尼ヶ台総合公園 湿生植物園 (長生村)
(画像出典:Wikipedia)
(※:「江戸の家計簿」より、米1石は30万円で換算)

ミニコーナー: 茂原の古代伝承と歴史、源頼朝伝説と酒盛塚のマツ

1180年 (治承4年) の8月、源頼朝は源氏再興のために伊豆国 (静岡県伊豆半島一帯) で挙兵しました。しかし、「石橋山の戦い」で平家側に大敗し、その後小船に乗って相模国土肥郷の真名鶴岬 (現・神奈川県足柄下郡真鶴町岩) から安房国猟島 (現・千葉県安房郡鋸南町竜島) に逃れました。安房国に上陸した地点には現在、県指定の史跡である「源頼朝上陸地碑」(Googleマップ) が建立されています。

酒盛塚伝説を基にした源頼朝の進軍ルー
(参考:吾妻鏡/上総国町村誌/長生郡郷土誌/茂原市史/
茂原市中央の発達史/郷土資料事典)

源頼朝は再起を図り、後に鎌倉幕府の樹立に大きく貢献することとなる、下総国 (千葉県北部) の有力な豪族である猪鼻城主の千葉常胤に面会するために北上することになりました。「猪鼻城」は通称「千葉城」とも呼ばれ、その城跡は亥鼻公園として整備され、公園内には中世の天守閣を模した「千葉市立郷土博物館」(Googleマップ) が設けられています。

途中、源頼朝は源氏の標旗「白旗」から名前を取ったとされる茂原市早野地区にある「白幡神社」[地図B] (Googleマップ) に立ち寄り、休息をとりました。その後、北上するために現在の茂原高校付近にあった「塚」(小丘) で、源頼朝は馳せ参じた武士たちに酒を振舞ったと言われています。また、この塚は幔幕が張り巡らされ、源頼朝の戦勝を祈願し、前途を祝福し、士気を高めるために酒宴を催した場所とも伝えられています。後にこの塚は「酒盛塚」と呼ばれ、源頼朝の伝説が地名の由来として伝わっています。

明治期の酒盛塚
<AI Colorized> (画像出典:日本写真帖)

この地名の由来は所説があり、江戸街道から遠くへ旅立つ人々の壮行の宴が開かれた場所、秋の祭礼の際に長生郡一宮町の「玉前神社」(Googleマップ) の神輿と茂原市山崎地区の「二宮神社」[地図A] (Googleマップ) の神輿が塚の前で会合し、双方の氏子達が酒肴を共にし五穀豊穣を祈願し、その後酒杯を交わして親睦を深めた場所だったとも言われています。酒盛塚は明治時代には既にに遺跡化していた様ですが、古代から道祖神が祀られていたことから、高師地区の祭場であったことは間違えないと思われます。

酒盛塚にはかつて、源頼朝も見たであろう、数本のクロマツが立ち並び、その中には樹齢380年以上で樹高約20m、根回り約8mという巨木もありました。1925年 (大正14年)、私立静和女子高等女学校 (現・茂原高校) の校舎が手狭になったため、藻原寺境内から酒盛塚の南側に校舎が移され、1963年 (昭和38年) の校舎拡張時に2本のクロマツは校舎前庭に取り入れられました。1965年 (昭和40年) 4月27日、「酒盛塚のマツ」として県指定の天然記念物に指定されました。

千葉県指定天然記念物「酒盛塚のマツ」(茂原高校)
<AI Colorized> (画像出典:茂原市史)

その後、台風や虫害により、1967年 (昭和42年) ごろに1本が枯死し、1974年 (昭和49年) には最後の1本も枯死しました。現在、茂原高校校内には記念碑が建立されていますが、「酒盛塚」としての面影は全く残っていません。ただし、茂原高校近くの豊田川に架かる橋は「酒盛橋」 (Googleマップ) と命名されており、この地がかつて酒盛塚として知られていたことを示す名前が残っています。



次章「外房線の中核をなす茂原駅と交通ネットワークの発達」では、JR外房線の主要駅である茂原駅を中心に、房総鉄道の開通から始まり、明治時代から昭和初期にかけての交通インフラの歴史を探ります。その中で、人力車や乗合馬車から始まり、人が客車や貨車を押す形態の鉄道であった「県営庁南茂原間人車軌道」や地域のローカル私鉄であった「南総鉄道」、そして現在の小湊鉄道バスの源流となった乗合自動車について解説いたします。

(公開日:2024.02.11/更新日:2024.03.31)

外房線の中核をなす茂原駅と交通ネットワークの発達 
三井東圧化学専用線が存在した工業都市「千葉県茂原市」 

inserted by FC2 system