前章「"天然ガス"がもたらした茂原市の工業都市化」では、戦前から戦後にかけて茂原市特産の安価で豊富な「天然ガス」により、燃料や原料として使う各事業所が市内に進出したことで、茂原市は都市工業化していくことになりました。 茂原市が都市工業化していく中で人口も急速に増加しました。その要因としては、「(株) 日立製作所茂原工場」(現在のジャパンディスプレイ茂原工場) と「三井東圧化学 (株) 千葉工業所」(現在の三井化学茂原分工場) という2つの大手企業の存在が挙げられます。こうした昭和40・50年代 (1965年から1984年) の茂原市内や茂原駅周辺の様子について解説いたします。
なお、日立製作所茂原工場に関しては、後の章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (2) [日立製作所]」で、三井東圧化学千葉工業所については、「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1)」および、「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (2)」で詳しく解説いたします。
また、ミニコーナー「三井東圧化学千葉工業所周辺の社宅と福利厚生施設」では、茂原市の人口増加の要因となった東洋高圧工業 (三井東圧化学) の社宅エリアについて解説し、「茂原市の映画館、昭和から平成への変遷」では、茂原市内に存在した映画館やシネコンについて紹介します。 朝の大混雑、昭和40・50年代の茂原駅の通勤事情
1967年 (昭和42年) 時点で茂原市の人口は4万5,830人でしたが、茂原駅の1日平均乗車人員は1万1,599人となっており、市民の約4分の1が毎日茂原駅を利用していたことになります。
主な茂原駅の利用者は、日立製作所茂原工場 (従業員5,146名※1) の1,033名をはじめ、自家用車の普及前だったため、鉄道を利用して茂原市内の企業に通勤している方が多数いました。(自家用車の普及率は昭和40年で20%弱、昭和50年で40%強※2)
この頃の外房線は、まだ房総東線と呼ばれた単線かつ非電化の時代でした。朝の通勤時間帯でも1時間に1本程度 (現在は10分に1本程度) の気動車 (ディーゼルカー) が運行されるダイヤで、一部の列車はC57形蒸気機関車に牽引される客車列車も残されていました。
そのため、朝晩の通勤時間帯の茂原駅は都心並み大混雑していたと思われます。 当時の国鉄と茂原市はこの危険防止と混雑緩和のため、跨線橋を1箇所から2箇所に増設しました。(当時の茂原駅については、後章「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」の「貨物発着量増加に伴う茂原駅の拡張」で詳しく解説)
茂原市、昼夜間人口比率で全国トップ3に躍進 当時の総理府統計局 (現在の総務省統計局) の調査でも、茂原市は常住人口100人あたりの昼間人口の比率が高く、「115.1」となり全国で3位であり、4位の東京都内の「112.9」よりも高かったことが分かります。この結果から、茂原市には多くの方が近郊の地域から通勤していたことが分かります。
日立製作所茂原工場の規模拡大による、人口流入が増加 のちに初代の日立製作所茂原工場となる前身の理研真空工業 (株) 茂原工場は、現在の茂原市総合市民センターの場所にあり、1936年 (昭和11年) 7月に347名の従業員で操業を開始しました。1943年 (昭和18年) 9月、戦時企業整備の一環として理研真空工業は日立製作所に吸収合併されました。(日立製作所茂原工場の歴史については、後章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (2) [日立製作所]」で解説)
1944年 (昭和19年) 7月には、現在の (株) ジャパンディスプレイ茂原工場のある場所に、新たに日立製作所早野工場 (後の日立製作所茂原工場) が設置されました。戦後、テレビの普及に伴い、国内で唯一ブラウン管を製造する工場として設備の増設が進み、1959年 (昭和34年) 当時、日立製作所茂原工場の従業員数は千葉県内では川崎製鉄 (株) 千葉製鉄所 (現在のJFEスチール東日本製鉄所) の7,589名に次ぐ、3,700名が在籍していました。(当時の茂原市の人口は3万8,716人)
日立製作所茂原工場の従業員の多くは、地元県内採用者が多数を占めており、国内で唯一ブラウン管を製造する工場として、生産設備の拡張が行われていた時期で毎年従業員が増加していました。
東洋高圧工業 (三井東圧化学) の進出と茂原市の人口増加の背景 対照的に、茂原市により旧茂原海軍航空基地 (海軍茂原飛行場) 跡地に誘致され、1957年 (昭和32年) 11月に開所した東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) の従業員は637名で、そのうち地元出身者は少数でした。(誘致の経緯については、後章「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」で詳しく解説)
従業員の多くは、本社や研究所をはじめ、特に北海道砂川市の北海道工業所 (現在の北海道三井化学本社工場)、山口県下関市の彦島工業所 (現在の下関三井化学本社工場)、福岡県大牟田市の大牟田工業所 (現在の三井化学大牟田工場) など他の工業所 (工場) から家族とともに転勤してきた方が多く、転勤者は全従業員の3分の2を占めていました。(三井東圧化学については、後章「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」で詳しく解説)
そのため、茂原駅の北東部に位置する東洋高圧工業千葉工業所 (三井東圧化学千葉工業所) の周辺には、広範囲のエリアに5万9,000坪 (東京ドーム約4.1個分※3) の敷地を持つ557戸の社宅や独身寮、社員クラブ、売店、野球場、プール、体育館、診療所などが点在し、従業員の約4分の3とその家族が住んでいました。 (詳細については、ミニコーナー「三井東圧化学千葉工業所周辺の社宅と福利厚生施設」で詳しく解説)
1957年 (昭和32年) 7月1日の東洋高圧工業千葉工業所の開所後、他の工業所などから毎月20〜30名の転勤者がおり、多い月は50名近くいました。1960年 (昭和35年) には大牟田工業所から集団赴任があり、転勤社員36名、家族を含め120名という大移動がありました。
鉄道での移動が一般的だった時代、東京駅から茂原駅への直通列車はなく、房総東線 (現在の外房線) は現在の千葉駅始発ではなく、総武線の両国駅始発でした。また、途中の千葉駅と大網駅でスイッチバックし、千葉駅では房総西線 (現在の内房線)の木更津駅方面、大網駅ではの東金線の東金駅方面へ向かう列車の切り離しがあったため、気が付いたら木更津駅に到着していたという方も多かったようです。このため、人事担当者が東京駅へ出迎えに行くようになりました。
茂原市の人口も1955年 (昭和30年) と東洋高圧工業千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所) が1957年 (昭和32年) に操業を開始した後の1960年 (昭和35年) の人口増加率は15.2% (3万4,189人から3万9,378人) であり、東京のベッドタウン化した千葉市や葛南・東葛飾地区を除けば、他の市町村は微増もしくは減少している中、茂原市の人口増加率は突出していました。
その後、茂原市の人口は増え続け、1965年 (昭和40年) で4万4,345人、1975年 (昭和50年) で6万4,593人、1985年 (昭和60年) で7万6,462人、1995年 (平成7年) で9万1,664人となっています。 定期貯金増加率で見る茂原市の経済成長 茂原市の都市工業化が進んだ1958年 (昭和33年) 9月末から1965年 (昭和40年) 3月までの預金額推移を見ると、景気変動にあまり影響しない安定的な定期性預金の増加率 (%) を都市の経済成長率として捉えると、千葉県は東京23区、神奈川県、埼玉県と比較してかなり高い成長率を示していることがわかります。
千葉県内でも茂原市の定期性預金の増加率は400%であり、これは県庁所在地である千葉市の399%を上回っていました。また、東京のベッドタウン化が進み、人口増加率が著しく増加した県北部の柏市、船橋市、習志野市を除くと、他の市町村は定期性預金の増加率が200〜300%の範囲にとどまっていました。田園の風景が広がり、自然も豊かな茂原市の数値は特に突出していました。
この定期性預金の増加率が高い理由は、茂原市の2大主要企業である日立製作所茂原工場が当時急速に普及したテレビのブラウン管生産でトップシェアだったためと、日立製作所同様に当時需要が高かった化学肥料の最大手である三井東圧化学の主力工場である三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の従業員の所得が、数値を押し上げたものと推測されます。
次章「茂原市の商業地区の発展と変遷について (1)」では、茂原市の商業地の変遷を取り上げます。地域経済に大きな影響を与えた主要な商業エリアや施設として、主要商店街である駅前通り商店街や榎町商店街の「アーケード一番街」、茂原駅周辺の賑わいを創出したショッピングセンター「扇屋ジャスコ茂原店」(現・イオンスタイル茂原) や都市型百貨店「茂原そごう」の出店の経緯について解説いたします。 そしてミニコーナー「「茂原ショッピングプラザアスモ」の概要と歴史について」では、地元商店の若手経営者たちが主導したショッピングセンター「アスモ」について解説いたします。
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