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トップ - 特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」(目次)
廃線・廃止になった鉄路
工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて (17)
三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (2)
三井東圧化学千葉工業所から、三井化学茂原分工場への変遷

前節「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1)」(東洋高圧工業千葉工業所から、三井東圧化学千葉工業所への変遷) では、三井東圧化学 (株) 千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の黎明期から最盛期までの発展し、三井東圧化学の主力工場となった経緯について解説しました。この節では、なぜ三井東圧化学千葉工業所の規模が縮小したのか、そして現在の三井化学市原工場の分工場「三井化学茂原分工場」となった経緯について解説いたします。

ミニコーナー「三井東圧化学専用線の三井東圧化学千葉工業所内の構内軌道」では、三井東圧化学専用線が運休する1年前の1994年 (平成6年) 3月27日に、公道から撮影された三井東圧化学千葉工業所内の構内軌道の貴重なスナップ写真を紹介しています。

三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の縮小期
メタノール工場の操業停止

三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) は、1958年 (昭和33年) 2月に操業を開始して以来、設備を拡張しながら年産13万トンのメタノールの生産を行っていましたが、ついに1991年 (平成3年) 12月をもってその生産を停止しました。翌1992年 (平成4年) から、三井東圧化学が使用するメタノールはすべて輸入品となり、前年比で5万トン増加し、合計で50万トンに拡大しました。

三井東圧化学 (株) メタノール生産能力推移表 (年産トン)
(参考:資源テクノロジー)

背景には、サウジアラビアなどからの輸入品との価格差が拡大し、原料の天然ガスから誘導品 (メタノールから作られる製品) までの一貫生産のメリットが享受できなくなったことが影響していました。(詳細については、ミニコーナー「化学産業のグローバル化と苦戦が続く国内メーカー」で詳しく解説)

三井東圧化学千葉工業所の環境問題

日本の高度成長期となった昭和40年代 (1965年から1974年) は、全国的に工場からの大気汚染や水質汚濁などの公害が社会問題となり、三井東圧化学 (現在の三井化学) でも原料に「石油」を使用する各工業所の公害対策に苦慮していました。当時の様子は、ミニコーナー「時代を先駆けた、三井東圧化学の緑化事業プロジェクト」でも紹介しています。

1987年 (昭和61年) 頃の三井東圧化学 (株) 千葉工業所 全景
(画像出典:千工三十年史)

三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) は、原料に大気や土壌を汚染しない「天然ガス」を使用していたため、公害問題の影響が少ないとされていました。しかし、1960年 (昭和35年)、千葉工業所および当時は子会社であった「関東天然瓦斯開発 (株)」の排水処理施設から、天然ガスから生成したアンモニアが隣接する一宮川の上流河川となる阿久川へ漏れ出し、水質汚濁が発生しました。


ナガラミ (我が家では、塩茹にして食べています)
(参考画像:楽天市場)

この結果、一宮川下流域で採れる食用タニシの「タツボ」(タツベ) や一宮川河口近くで採れる名産の巻貝の一種である「ナガラミ」に大きな被害が生じました。 三井東圧化学は被害の保障として、長生郡長生村の一松漁業組合227名に対して見舞金25万円 (現在の価値で約60万円、総額約1億3,560万円※1) を支払いました。(関東天然瓦斯開発については、前章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3)」で解説)

天然ガス依存への代償、千葉工業所が直面する地盤沈下

三井東圧化学千葉工業所では、一次原料や化学肥料や化成品などの生産に必要な「天然ガス」が含まれる「かん水」を地下から大量に汲み上げたことで、茂原市を含む九十九里エリアの地盤沈下が急速に進行し、同様に千葉県内では京葉臨海工業地帯にある「川崎製鉄 (株) 千葉製鉄所」(現在のJFEスチール東日本製鉄所) などでも工業用地下水を大量に汲み上げていたため、千葉県全域で地盤沈下が進行し、より深刻な状況に陥りました。(天然ガスについては、前章「"天然ガス"がもたらした茂原市の工業都市化」で詳しく解説)

千葉県は、1973年 (昭和48年) に三井東圧化学など千葉県内で天然ガス (南関東ガス田) を採掘する企業と「地盤沈下の防止に関する協定」を結び、県内の天然ガス井を966抗井から476抗井へ削減し、1981年 (昭和56年) からは取り組みを強化し、汲み上げ量も規制しました。(参考:千葉県庁「天然ガスかん水の採取に伴う地盤沈下の防止の取組み」)

1985年 (昭和60年) 千葉県天然ガス対策協議会 広告

また、日本最大級の南長岡ガス田がある新潟県でも同様の理由で地盤沈下が問題視され、姉妹会社で千葉工業所同様に天然ガスから一次原料などの生産を行っていた新潟県新潟市にある「東洋瓦斯化学工業 (株) 新潟工業所」は1985年 (昭和60年) 9月に操業を停止し、千葉工業所は困難に直面することになりました。

なお、東洋瓦斯化学工業は1990年 (平成2年) 7月に解散しています。同社については、前章「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」の「二大ガス地帯への布石、東洋高圧工業 (株) の天然ガス戦略」で詳しく解説しております。

三井東圧化学の主力製品だった、化学肥料の生産が終息

1975年 (昭和50年) 頃になると、三井東圧化学の売上の約20%弱を占めていた化学肥料は、環境汚染や生態系への悪影響も社会問題化し、有機農法や自然栽培への転換が進んだため、化学肥料は供給過多による大幅な値崩れを起こし、業績が悪化し低迷しました。三井東圧化学は経営合理化を進め、本体から慢性的な赤字となっていた肥料事業本部を分離独立させ、1981年 (昭和56年) 11月10日に「三井東圧肥料 (株)」を設立し、各工業所の化学肥料プラントは同社に移管され、「三井東圧肥料千葉工場」を含む4工場体制となりました。

1959年 (昭和34年) 三井東圧化学 (株) 広告
1994年 (平成6年) 三井東圧肥料 (株) 広告

しかし、1999年 (平成11年) 頃になると、国の減反政策などの影響で、化学肥料の需要低迷が続き、2000年 (平成12年) 9月に三井東圧肥料千葉工場は操業を停止しました。その後、2007年 (平成19年) 4月には、日産化学工業 (株) の化学肥料製造部門と合併してサンアグロ (株) となりましたが、三井東圧肥料千葉工場だけは事業継承されず、1958年 (昭和33年) 7月18日の初出荷以来約42年続いた、千葉工業所での化学肥料生産の歴史の幕を閉じることとなりました。(詳細については、前章「国内トップシェアの化学肥料メーカー誕生から終焉まで」の「三井東圧化学の肥料部門の分社化と化学肥料事業の終焉」で詳しく解説)

昭和から平成へ、露呈した生産設備の老朽化

1971年 (昭和46年) 時点で既に三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の生産設備などの老朽化が指摘されていました。三井東圧化学大阪工業所 (現在の三井化学大阪工場) から三井東圧化学千葉工業所へ転勤した、後の所長となる技術室長は、「プラントは老朽化や陳腐化していると感じた」と述べています。

昭和から平成にかけて、尿素、硫安、アンモニアなどの各プラントや工場は操業開始から40年近く経過しており、老朽化も一層進んでいたと推察されます。この時期、三井東圧化学千葉工業所内では老朽化が原因と思われるボヤが発生しており、化学消防車の出動や地元消防団の知人が消火活動 (化学品に水は効かないため、実際には交通整理などが主な活動だった) に参加していたことが思い出されます。(参考動画:共同通信 2017年の三井化学茂原工場の火災報道)

三井東圧化学専用線の廃止 (新茂原貨物駅〜三井東圧化学千葉工業所)

巨額な赤字で当時の国鉄が貨物駅の統廃合が進められていた影響もあり、北海道工業所 (現在の北海道三井化学本社工場)、大船工業所、彦島工業所 (現在の下関三井化学本社工場) などで行われていた専用線による鉄道輸送は、大牟田工業所 (現在の三井化学大牟田工場) と千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) のみが残りました。

千葉工業所から三井東圧化学専用線を阿久川沿いに新茂原貨物駅へ向かう、貨物列車
<AI Colorized> (写真提供:railokachi23様)

しかし、1988年 (昭和63年) における三井東圧化学の利用輸送機関別の割合は、貨物自動車が80%、鉄道は5%に過ぎず、当時の国内物流でも鉄道輸送の割合はわずか4.9%しかありませんでした。千葉工業所は専用線の廃止に向けた方針を取っていたようで、早い段階で化学肥料の出荷は鉄道輸送からトラック輸送に切り替えており、晩年にはタンク車による原料の輸送をわずかに行っていました。そして、1995年 (平成7年) 10月1日には、三井東圧化学専用線での輸送を廃止しました。(詳細については、次章「三井東圧化学専用線で行われた、鉄道貨物輸送の歴史」で詳しく解説)


三井東圧化学 (株) 千葉工業所から、三井化学 (株) 茂原分工場へ
三井石油化学工業の合併による、「三井化学」の発足

日本の化学メーカーは、その規模が海外の化学メーカーに比べて10年遅れているとされ、海外の化学メーカーの売上高が4兆円を超える中、国内メーカーはいずれも1兆円に達していませんでしたが、1994年 (平成6年) 10月1日に、戦前の旧三菱財閥の系譜を引く「三菱化成 (株)」と、戦後に発足した新興の「三菱油化 (株)」がついに合併を果たし、売上高が1兆円を超える国内化学メーカー、現在でも業界トップとなる「三菱ケミカル (株)」の前身となる「三菱化学 (株)」が発足しました。(国内の化学メーカーが直面していた状況については、ミニコーナー「化学メーカーのグローバル化と苦戦が続く、三井化学」で解説)

この流れを受けて、三井グループの化学部門 (東レ・三井石油化学工業・三井東圧化学) でも1955年 (昭和30年) 7月の発足以来、成長を続けていた三井物産系の「三井石油化学工業 (株)」と低迷していた三井鉱山系の「三井東圧化学 (株)」が、かつて確執があった元子会社に吸収合併される形となり、当時業界第2位となる「三井化学 (株)」が1997年(平成9年)10月1日に発足しました。三井東圧化学千葉工業所は、三井化学 (株) 茂原工場となり、現在は同じ千葉県内にある京葉臨海工業地帯に位置する「三井化学 (株) 市原工場」(旧称は、三井石油化学工業千葉工場) の分工場、「三井化学 (株) 茂原分工場」として位置づけられています。

2021年 (令和3年) 三井化学 (株) 市原工場
(画像出典:Googleマップ)

なお、三井石油化学工業の歴史については、前章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」で、両者の詳しい合併の経緯や系譜図については、前章「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」の「大手化学メーカーの経営統合と三井化学 (株) の発足」で解説しております。

「三井化学 (株) 茂原分工場」の現在

以下の2枚の航空写真は、三井東圧化学千葉工業所単体の売上高が3兆円前後で推移していた最盛期と言える1983年 (昭和58年) 10月と、現在の「三井化学茂原分工場」として規模が縮小した2016年 (平成28年) 11月のものです。

1983年 (昭和58年) 10月 三井東圧化学 (株) 千葉工業所 全景
国土地理院「茂原」(昭58/平28)
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると以下の2016年 (平成28年) の画像に切り替わります]

2016年 (平成28年) 11月になると、生産施設 (プラント) が減少し、メタノール工場跡地には「三井化学技術研修センター」が新たに設けられ、かつての三井東圧化学専用線の敷地内軌道は舗装され、ワムやタキなどの有蓋車やタンク車が停まっていた留置線や製品倉庫は姿を消し、その代わりに太陽光発電事業の実証試験用の太陽光パネルが設置されています。この様子は公道 (Googleマップ) からも観察することができます

2016年 (平成28年) 11月 三井化学 (株) 茂原分工場 全景
国土地理院「茂原」(平28) 加筆
左上に見える三井サイアミッド (有) 茂原工場は、「MTアクアポリマー (株) 茂原工場」に、三井東圧化学社員専用野球場や三井製薬工業の駐車場は「三井化学アグロ (株) 研究開発本部」」(旧社名は、三井東圧農薬) に三井製薬工業 (株) 千葉工場は、「沢井製薬 (株) 関東工場」になっています

三井東圧化学専用線が運休する1年前の1994年 (平成6年) 3月27日の三井東圧化学千葉工業所内の構内軌道の様子については、 ミニコーナー「三井東圧化学専用線の三井東圧化学千葉工業所内の構内軌道」で貴重なスナップ写真を紹介しています。なお、三井東圧化学と関係があった「MTアクアポリマー」と「沢井製薬」とについては、前章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (1) 三井東圧化学」で解説しております。

三井東圧化学の主力化学工場から、三井化学の研修施設へ

三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の正門付近にあったパラホルムアルデヒド工場、ヘキサメチレンテトラミン工場、およびホルマリン工場の各種化学プラント (生産設備) は姿を消しました。

2000年 (平成12年) 11月
三井化学 (株) 茂原分工場 (正門付近)
(筆者撮影)
2012年 (平成24年) 10月
三井化学 (株) 茂原分工場 (正門付近)
(画像出典:Googleマップ)

平成初頭までは、三井東圧化学千葉工業所の象徴的存在であった2本の「尿素造粒塔」を含む、公道からは多くの化学プラントの配管などが目立ちました。しかし、ほとんどは撤去され、現在では化学工場というよりもむしろ研修施設および実験施設という印象を受けます。

1973年 (昭和48年) 三井東圧化学 (株) 千葉工業所
<AI Colorized> (画像出典:茂原市中央の発達史)
中央に見える塔が尿素造粒塔 (尿素工場)
2015年 (平成27年) 三井化学 (株) 茂原分工場
(画像出典:Googleマップ)
左側のメタノール工場は三井化学技術研修センターに

変わりゆく、三井東圧化学千葉工業所周辺の光景

三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) は、千葉県の内陸工業団地である「茂原工業団地」の一部を占めていました。千葉工業所周辺には、「東洋エンジニアリング (株) 技術研究所 茂原研究センター」、「東洋ビューティサプライ (株) 千葉工場」、「三井製薬工業 (株) 千葉工場」、三井東圧化学の物流子会社である「新富運輸 (株) 茂原営業所」(後のエム・ティ・ビー茂原営業所)、千葉工業所の子会社「三葉興産 (株)」が運営していた園芸店「グリーンサンヨー」など、三井東圧化学と関連する企業が多数ありました。また、西の台社宅、富士見社宅、六ツ野社宅、八幡前社宅、東郷社宅、東之台社宅といった社宅が林立していました。

1975年 (昭和50年) 三井東圧化学 (株) 社宅エリア 2016年 (平成28年) 現在
国土地理院「茂原」(昭50) 国土地理院「茂原」(平28)
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると表記無しの画像に切り替わります]

また、中小規模の化学メーカーや電子部品の製造、学習教材、機械加工、鉄工所も点在しており、これらの製品や原料の輸送を担う物流会社「京葉ロジコ」も存在し、工業所の正門から県道84号茂原長生線に接続するT字路 (六ツ野社宅付近) には、茂原工業団地に入居する企業を案内する看板が設置されていました。

茂原工業団地 案内板
(画像出典:Googleマップ)
ライフガーデン茂原
(画像出典:Googleマップ)

2023年 (令和5年) 現在、茂原市の地区計画ではこのエリアは工業団地から除外されており、三井化学茂原分工場正門から県道84号茂原長生線に接続するT字路付近 (元・六ツ野社宅付近) にあった園芸店「グリーンサンヨー」は閉店し、更地となりました。エム・ティ・ビー茂原営業所は丸全京葉物流 (株) に事業譲渡され、同社の営業所となっています。また、茂原工業団地の案内板は撤去され、代わりにショッピングモール「ライフガーデン茂原」の案内板が設置され、ほとんどの社宅エリアはこのライフガーデン茂原の敷地や一般住宅地となっています。

なお、関連会社の東洋エンジニアリングや東洋ビューティサプライについては、前章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (1) 三井東圧化学」で、三葉興産やグリーンサンヨーについては、ミニコーナー「時代を先駆けた、三井東圧化学の緑化事業プロジェクト」で、新富運輸茂原営業所については、付録「三井東圧化学 (三井化学) での鉄道貨物輸送について」の「三井東圧化学 (株) の物流子会社の変遷について」で、社宅エリアについては、ミニコーナー「三井東圧化学千葉工業所周辺の社宅と福利厚生施設」で解説しております。

(※1:東京ドーム47,000u・14,217坪で換算)


次章「三井東圧化学専用線で行われた、鉄道貨物輸送の歴史」では、三井東圧化学千葉工業所 (現材の三井化学茂原分工場) が所有していた「三井東圧化学専用線」での鉄道貨物輸送について、詳しく解説いたします。

(公開日:2024.01.21/更新日:2024.04.07)

三井東圧化学専用線で行われた、鉄道貨物輸送の歴史 
三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1) 

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