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廃線・廃止になった鉄路
工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて (14)
三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢

前章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」では、石炭化学から石油化学への転換や、現在の三井化学の前身である「三井石油化学工業」について解説しました。

この章では、1970年代 (昭和45年〜昭和54年) の日本の化学業界と三井東圧化学が置かれた状況、そして現在の「三井化学」誕生の経緯について簡単に解説いたします。また、ミニコーナー「化学メーカーのグローバル化と苦戦が続く、三井化学」では、大手国内化学メーカーである三井化学や三菱ケミカル、住友化学などをグローバル化の観点から解説いたします。

苦境の三井東圧化学、大手4社の後塵を拝した経営戦略
1970年 (昭和45年) に三井東圧化学 (現在の三井化学) が誕生した当時、大手化学会社としては、前章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」の「石油化学で後塵を拝した三井鉱山系2社」で紹介した「三菱化成工業 (株)」(現在の三菱ケミカル)、「住友化学工業 (株)」(現在の住友化学) の他に、「昭和電工 (株)」(現在のレゾナック)、「宇部興産 (株)」(現在のUBE) が挙げられます。

1961年 (昭和36年) 国内の化学主要4会社
(参考:近代化すすむ日本の企業)
三菱化成工業 (株) 住友化学工業 (株) 昭和電工 (株) 宇部興産 (株)
1970年 (昭和45年) 広告 1961年 (昭和36年) 広告 1960年 (昭和35年) 広告 1968年 (昭和43年) 広告

躍進する大手化学メーカー、昭和40年代の業績ハイライト

三菱化成工業 (現在の三菱ケミカル) は、石油化学およびアルミニウムなどが堅調に推移し、1970年 (昭和45年) 1月期には前期比10%増の売上高と11%増の利益を記録し、利益率は18%となっています。

住友化学工業 (現在の住友化学) は、ポリエチレン樹脂の販売が伸び、1969年 (昭和44年) 12月期には前期比12%増の売上高と9.5%増の利益を達成し、利益率は16%となっています。そして、1970年 (昭和45年) 6月期には、化学会社として初めて売上高が1,000億円を突破し、1,080億円 (現在の価値で約2,342億円※1) となり、引当金を積み増しする余裕をみせていました。

 三菱化成工業 (株) 事業内容   住友化学工業 (株) 事業内容

昭和電工 (現在のレゾナック) は、工場の増設によるアルミ部門と熔業部門の需要増加、合金鉄 (フェロアロイ)、電極用研磨剤の需要増加などにより、1969年 (昭和44年) 12月期には前期比21%増の売上高と17%増の利益を達成し、利益率は12.7%となっています。

宇部興産 (現在のUBE) は、石炭事業からの完全撤退に向けて進んでおり、新規事業の石油化学 (高圧法ポリエチレン) が順調で、セメントの販売も好調でした。このため、1970年 (昭和45年) 3月期には前期比12.2%増の売上高と39.6%の大幅な増益を達成し、利益率は17%となっています。

昭和電工 (株) 事業内容 宇部興産 (株) 事業内容

上記の4社が順調に業績を伸ばしている一方で、三井東圧化学 (現在の三井化学) は主力の肥料の輸出が伸び悩み、特に三井東圧化学大牟田工業所の尿素生産が停止するなど不振に陥っていました。1970年 (昭和45年) 3月期には前期比7%増の売上高と9%増の利益を記録し、利益率は11%となりましたが、競合他社に比べると見劣りする決算となっていました。

三井東圧化学 (株) 事業内容
[資本金: 219憶5,200万円]

立ち遅れる石油化学、三井東圧化学の苦境

石油化学への転換が進む中、三菱化成工業、住友化学工業、昭和電工、兼業のアルミ部門も好調であり、宇部興産はセメントが順調で業績に大きく貢献していました。

1970年 (昭和45年) 主要化学6社の業績 (半期)
(金額は日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)

一方で、三井東圧化学は前章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」の「石油化学で後塵を拝した三井鉱山系2社」で解説した「泉北石油化学コンビナート」の操業開始にも関わらず、石油化学部門における製品である誘導品関連の売上が想定よりも低く、利益に直結していませんでした。さらに、各社が毎年13〜17%の増益を達成している中で、石炭化学の尿素などの化学肥料が大きなウェイトを占める三井東圧化学は10〜11%で横ばいが続き、厳しい経営状況に直面していました。

1970年 (昭和45年) 5期比較・主要5社の純利益 (億円) 及び、利益率 (%) の推移
(金額は日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)

また、同じ三井グループ内でもかつて袂を分かった元子会社である三井石油化学工業 (株) (現在の三井化学の母体) でも、当期で比較すると三井東圧化学の売上額約618憶円 (純利益12憶円) に対し、三井石油化学工業は約309憶円 (17憶円) と、利益率が大きく上回っており、三井東圧化学がいかに停滞しているかが明らかとなっています。

1970年 (昭和45年) 三井東圧化学・三井石油化学工業の純利益と利益率の推移
(金額は日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)

なお、三井石油化学工業については前章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」内の「石油化学工業への先行投資、三井石油化学工業 (株) の設立」で詳しく解説しています。

(※1:日銀企業物価指数を基に換算/上記のグラフ等数値は1970年版の日本企業要覧を参考)

三井東圧化学の再建、組織変革と生産集約への取り組み
1970年 (昭和45年) 時点で、三井東圧化学は競合他社に比べて会社の規模に対して従業員数が1万521名と多く、1人当たりの付加価値は約360万円 (現在の価値で約755万円※1) でした。一方で、三菱化成工業 (現在の三菱ケミカル) は約520万円 (現在の価値で約1,090万円※1)、住友化学工業 (現在の住友化学) は約460万円 (現在の価値で約965万円※1) と比較して、付加価値は約20%低く、余剰人員は約2,000名となっていました。

また、三井東圧化学は合併を繰り返してできた会社であったため、研究所は6か所あり、「商品技術研究所」と「中央研究所」は旧東洋高圧工業と旧三井化学工業でそれぞれ2つずつ、さらに各工場所属の研究室が8か所もあり、研究に従事する従業員は全従業員の14%を占める1,500名が在籍していました。

中央研究所 (旧・東洋高圧) [神奈川県横浜市戸塚区]
<AI Colorized> (画像出典:産業フロンティア物語)

三井東圧化学は、従業員の平均年齢が「38.6歳」という点でも競合他社に比べて給与水準を高く押し上げる要因となっており、従業員約20人に対して1人が管理職であり、管理職比率も非常に高くなっていました。例年、大幅な給与のベースアップも行われ、人件費の高騰に加えて組織の肥大化が経営に悪影響を与えていました。さらに、三井化学工業との合併で企業としてスケールアップしたメリットが全く生かされていない状況になっていました。

1970年 (昭和45年) 主要化学メーカーの従業員内訳・給与の比較
(参考:日本企業要覧/※:日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)

1972年 (昭和47年)、三井東圧化学はこのような状況を打破するため、「再建3か年計画」を打ち出しました。この計画では、不採算生産拠点であった大牟田工業所・名古屋工業所・大竹工業所の事業内容の転換や、主力生産拠点の大阪工業所・千葉工業所 (茂原) への生産集約、人員整理などの更なる合理化や工業所の再編成を行いました。のちに、大阪工業所は従業員2,000名で三井東圧の売上の40%を占めることになりました。

また、1972年 (昭和47年) には累積赤字解消のため、コカ・コーラやファンタなどを製造し、高収益を上げていた優良子会社の「三国コカ・コーラボトリング (株)」(現在のコカ・コーラボトラーズジャパン) を三井物産 (株) に35億円 (現在の価値で約73億円※1) で売却しました。

三国コカ・コーラボトリング (株) 桶川工場 (埼玉県北足立郡桶川町)
<AI Colorized> (画像出典:日本のコカ・コーラ産業)
三国コカ・コーラボトリング (株) 広告
<AI Colorized>

1973年 (昭和48年) には、不採算事業所の尼崎工業所 (兵庫県尼崎市) と大船工業所 (神奈川県横浜市) を閉鎖し、用地売却を行いました。1975年 (昭和50年) には三井東圧化学の従業員数が1万人を下回り、8,200人となり、昭和51年 (1986年) には大竹工業所 (広島県大竹市) も閉鎖されています。

(※1:日銀企業物価指数を基に換算)

大手化学メーカーの経営統合と三井化学 (株) の発足
1990年代 (平成2年〜平成11年) において、日本の自動車、家電、鉄鋼メーカーは世界トップクラスでしたが、化学メーカーは海外メーカーに比べて規模拡大が10年遅れていると言われていました。国際競争力を強化するため、三井グループでも化学部門である三井東圧化学 (株) と三井石油化学工業 (株) の統合が必要とされ、更なるスケールアップが求められました。

三井東圧化学 (株) (平成8年) 広告 <AI Colorized> 三井石油化学工業 (株) (平成8年) 広告 <AI Colorized>

しかし、前章「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」の「石油化学で後塵を拝した三井鉱山系2社」でも解説しましが、当時、日本最大規模の三池炭鉱を所有し、日本の産業発展を支えた技術屋志向の三井鉱山 (株) 系の三井東圧化学と、世界中でビジネスを展開し、根っからの商人気質を持つ三井物産 (株) 系の新興会社である三井石油化学工業では、同じ旧三井財閥でありながら社風が異なっていました。かつて三井石油化学工業は三井東圧化学の母体となった三井化学工業 (株) の傘下として設立され、両社の確執から三井鉱山系から三井物産系への移行した経緯もあり、合併は難しいとされていました。

三菱化学誕生が契機となった、三井東圧化学と三井石油化学工業の合併

1994年 (平成6年) 10月に、戦前の旧三菱財閥の流れを汲む三菱化成 (株) (旧社名は、三菱化成工業) と戦後に発足した新興の三菱油化 (株) がついに合併し、当時の国内総合化学メーカーのトップシェアとなる「三菱化学 (株)」(現在の三菱ケミカル) が誕生しました。この動きを受けて、三井グループでも三井鉱山系の三井東圧化学と三井物産系の三井石油化学工業との合併が再び取り沙汰されていきました。

三菱化学 (株) (平成7年) 広告 <AI Colorized>

当初、三井石油化学工業は三井東圧化学のリストラが遅れていたため、合併を拒否していました。そのため、三井東圧化学は不採算だった化学肥料部門を分社化し、新たに三井東圧肥料 (株) を設立して本体から分離するなど、人員削減などのコストカットが進んで増収増益が見込まれることとなりました。(三井東圧肥料については、次章「国内トップシェアの化学肥料メーカー誕生から終焉まで」の「三井東圧化学の肥料部門の分社化と化学肥料事業の終焉」で詳しく解説)

そして、1997年 (平成9年) 10月に三井石油化学工業 (資本金320憶9,900万円) が三井東圧化学 (資本金707憶6,200万円) を吸収する形で両社が合併 (合併比率1:0.6) し、当時の三菱化学に次ぐ国内第2位となる現在の総合化学メーカー「三井化学 (株)」が誕生しました。

三井化学 (株) 系譜図 <1997年 (平成9年) 発足時>
(参考:日本企業要覧/明治百年 企業の歴史/内航近海海運/東京証券取引所 証券)

資本金は「1,027憶6,100万円」、本社は東京都千代田区にあり、事業所は北海道砂川市の「北海道工場」(現在の北海道三井化学本社工場) 、千葉県茂原市の「茂原工場」(現在の市原工場茂原分工場)、千葉県市原市の「市原工場」、愛知県名古屋市南区の「名古屋工場」、大阪府高石市の「大阪工場」、山口県宇部市の「山口スチレン工場」(現在の太陽石油山口事業所)、山口県玖珂郡和木町の「岩国大竹工場」、山口県下関市の「下関工場」(現在の下関三井化学本社工場)、福岡県大牟田市の「大牟田工場」と8カ所となりました。1998年 (平成10年) 3月時点の年間売上高は、「5,165億3,000万円」となっています。(橙色は旧三井東圧化学、桃色は旧三井石油化学工業)

三井化学 (株) 企業ロゴと本社ビル
(企業ロゴ出典:Wikipedia) 三井化学 (株) (平成10年) 広告

2000年 (平成12年) に、三井化学北海道工場と三井化学下関工場は、それぞれ三井化学から分離独立し、「北海道三井化学 (株)」と「下関三井化学 (株)」となっています。

2023年 (令和5年) 三井化学 (株) 系譜図
(参考:日本企業要覧/明治百年 企業の歴史/内航近海海運/東京証券取引所 証券)

なお、化学肥料部門を分社化については、次章「国内トップシェアの化学肥料メーカー誕生から終焉まで」の「三井東圧化学の肥料部門の分社化と化学肥料事業の終焉」で詳しく解説しています。



次章「国内トップシェアの化学肥料メーカー誕生から終焉まで」では、国内の化学肥料産業の歴史をたどります。東洋高圧工業大牟田工業所 (後の三井東圧化学大牟田工業所、現在の三井化学大牟田工場) の全盛期から始まり、その後の時代の変遷や肥料部門の分社化、そして化学肥料生産の終焉について詳しく解説いたします。

(公開日:2024.01.21/更新日:2024.03.17)

国内トップシェアの化学肥料メーカー誕生から終焉まで
本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立 

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