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トップ - 特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」(目次)
廃線・廃止になった鉄路
工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて (15)
国内トップシェアの化学肥料メーカー誕生から終焉まで

これまで、「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」、「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」、「本邦初の石油化学会社誕生と三井グループ化学部門の対立」、「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」と4章にわたり、三井東圧化学 (株) の発展と、現在の三井化学 (株) への歴史的経緯を簡潔に解説してきました。この章では、三井東圧化学の前身である東洋高圧工業 (株) がどのようにして化学肥料業界で最大手の地位を築き上げ、そしてなぜ化学肥料の生産が衰退に至ったのかを解説いたします。

日本最大級の化学肥料工場「東洋高圧工業 (株) 大牟田工業所」の歩み
東洋高圧工業 (株) 系譜図
(参考:明治百年 企業の歴史/日本硫安工業史/産業フロンティア物語)

化学肥料の黎明期、日本初の化学肥料製造会社の誕生

まず、日本の化学肥料の歴史について簡単に触れると、1887年 (明治20年) に実業家の渋沢栄一氏や化学者の高峰譲吉博士らが日本初の化学肥料製造会社「東京人造肥料 (株)」(現在の日産化学) を創業し、東京・深川の通称「釜屋堀」(現在の東京都江東区大島) に本社工場を設置し、1888年 (明治21年) にリン酸系化学肥料である「過燐酸石灰」の生産を始めたことが起源となります。なお、現在本社工場跡は「釜屋堀公園」(Googleマップ) となっており、公園内には「化学肥料創業記念碑」と「尊農の碑」が建立されています。

1902年 (明治35年) 東京人造肥料 (株) 広告
1900年 (明治33年) 頃の東京人造肥料 (株) 本社工場 全景
<AI Colorized> (画像出典:日本之名勝)

明治・大正期の農業では、たい肥・魚肥・大豆粕などの自家製肥料である「有機肥料」が一般的に使用されており、当時は"人造肥料"と呼ばれた「化学肥料」に対しては知識不足から否定的な意見が多くありました。このような認識から、東洋人造肥料が化学肥料を発売してから4年経っても、予定量の3割強しか売れず、経営不振に陥っていました。そのため、同社は全国を巡回して宣伝や周知活動を行い、化学肥料の普及に努めていました。化学肥料は必要な栄養素を効率的に補給でき、土壌の養分を補完する土壌改良の役割もあり、農作物の品質が向上し収穫量が増えるなどの効果が理解され、徐々に「化学肥料」が普及していくことになります。

このような流れから、のちに「東洋高圧工業 (株)」(三井東圧化学を経て、現在の三井化学) の設立にかかわる、三井財閥の一角で国内最大規模の三池炭坑などを所有していた三井鉱山 (株) でも1912年 (明治45年) に小規模な工場を建設し、窒素系化学肥料の「硫安 (硫酸アンモニウム)」の生産を始めました。(三井鉱山については、ミニコーナー「日本の産業革命の礎となった三井鉱山と、鉱工業都市「大牟田」」で解説)

昭和期の化学肥料市場と姉妹会社「三池窒素工業 (株)」

昭和期に入ると、人口増加に伴う急速な都市化などが進んだため、農産物の需要が増加し、効率的な生産量拡大が求められました。しかし、従来の有機肥料は供給が追いつかず不足し、さらに輸入していた有機肥料の価格が高騰したため、工場で大量生産された安価でコストパフォーマンスの良い化学肥料への需要が急増しました。

1929年 (昭和4年) 4月、三井鉱山はこの需要に応えるため、新たに「臨時窒素建設部」を設置し、染料製造を行っていた「三池焦煤工場」(後の三井化学工業三池染料工業所、現在の三井化学大牟田工場J工場) のコークス炉で発生する副産物のガスを利用して前述の「硫安」を生産する取り組みを行いました。1931年 (昭和6年) 8月、臨時窒素建設部は独立し、資本金1,000万円 (現在の価値で約115億円※1) を投じて設立された、後述する「三池窒素工業 (株)」となりました。なお、東洋高圧工業は約1年半後の1933年 (昭和8年) 4月に設立されています。



日本窒素肥料・
朝鮮窒素肥料は、現・チッソ
大日本人造肥料は、現・日産化学
電気化学工業は、現・デンカ
三池窒素工業は、現・三井化学
昭和肥料は、現・レゾナック
住友肥料製造所は、現・住友化学

1933年 (昭和8年) 「硫安」 製造会社広告 <三池窒素工業>

同じ三井鉱山系列の化学肥料製造会社である「三池窒素工業」と「東洋高圧工業」が別々に設立されたのは、三池窒素工業は副産物のガスから化学肥料の原料となるアンモニアを少量生産するのに対して、東洋高圧工業はコークスから直接アンモニアを大量生産する全く性格の異なる会社であったためです。また、当時の法律では肥料会社を設立した場合、3年間は免税処置となる節税対策という理由もありました。のちに両社は合併することになります。

東洋高圧工業大牟田工業所の誕生の経緯


1929年 (昭和4年) 4月、三井鉱山は経営破綻した鈴木商店系の硫安製造を引継ぎ、新たに前述の「臨時窒素建設部」を設置して、1930年 (昭和5年) 5月に福岡県大牟田市に新たな硫安工場を建設しました。翌1931年 (昭和6年) 8月にこの「臨時窒素建設部」は独立し、前述の三池窒素工業となりました。(鈴木商店については、ミニコーナーの「かつて三井・三菱を凌駕した幻の総合商社、鈴木商店」で詳しく解説)

1933年 (昭和8年) 頃の三池窒素工業 (株) 工場内景
<AI Colorized> (画像出典:産業フロンティア物語)
1950年 (昭和25年) 三井鉱山 (株) 広告

翌1932年 (昭和7年) 1月から、三井鉱山の硫安工場はそれぞれ「三池窒素工業大浦工場」(三坑町) および「三池窒素工業横須工場」(新開町) に改称されました。また、東洋高圧工業の「東洋高圧工業三池高圧工場」は、三池窒素工業大浦工場の隣接地に建設されていました。1937年 (昭和12年) 2月、三池窒素工業は東洋高圧工業に吸収合併され、三池窒素工業の工場はそれぞれ東洋高圧工業大浦工場、東洋高圧工業横須工場となり、東洋高圧工業三池高圧工場を含め、1943年 (昭和18年) 1月に「東洋高圧工業大牟田工業所」(後の三井東圧化学大牟田工業所、現在の三井化学大牟田工場) と命名されました。

三池窒素工業 (株) 大浦工場 三池窒素工業 (株) 横須工場
<AI Colorized> (画像出典:福岡県工場鉱山大観)

東洋高圧工業大牟田工業所は、「アンモニア製造所」の大浦工場 (旧東洋高圧工業三池高圧工場および旧三池窒素工業大浦工場) と「硫安製造所」の横須工場 (旧三池窒素工業横須工場) の2つの工場から成り立っています。横須工場では、隣接する「三井金属鉱業 (株) 三池製錬所」で硫化鉱から生成された"硫酸"と、大浦工場から全長4kmのパイプライン (輸送管) で送られてくる"アンモニアガス"を化合させて"硫安"を生成し、さらにこの硫安に大浦工場から送られてくる"炭酸ガス"を合成して、窒素系化学肥料の「尿素」を製造していました。

大牟田工業地帯図 (福岡県大牟田市)
(出典:日本の化学工業 加筆)
大牟田工業所のパイプライン
<AI Colorized> (画像出典:硫安協会月報)

東洋高圧工業は、1938年 (昭和13年) 10月に山口県彦島市でアンモニア合成 (製造) と同系のメタノール合成 (製造) を行っていた同じ三井鉱山系の「合成工業 (株)」(合成工業彦島工場) を吸収合併して、「東洋高圧工業彦島工業所」(後の三井東圧化学彦島工業所、現在の下関三井化学) が誕生しました。その後、北海道砂川市に「東洋高圧工業北海道工業所」(後の三井東圧化学北海道工業所、現在の北海道三井化学)、神奈川県横浜市に「東洋高圧工業大船工業所」、千葉県茂原市に「東洋高圧工業千葉工業所」(後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場)、大阪府泉北1区に「東洋高圧工業大坂工業所」(後の三井東圧化学大坂工業所、現在の三井化学大坂工場)を次々と新規開設し、東洋高圧工業は最盛期を迎えることになりました。(合成工業については、前章「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」の「日本初のアンモニア合成工場と東洋高圧彦島工業所の沿革」で解説)

(※1:日銀企業物価指数を基に換算)

"丸ツバメ"と共に飛翔した東洋高圧工業の化学肥料事業
昭和20年代から昭和40年代 (1945年から1975年) の東洋高圧工業 (株) (後の三井東圧化学、現在の三井化学) は、窒素系化学肥料製造において国内トップメーカーであり、窒素系化学肥料である「硫安」と「尿素」については、それぞれの生産量の55%および75%を海外へ輸出していました。さらに、尿素製造の特許技術を世界10数か国に技術供与していました。

1954年 (昭和29年) 東洋高圧工業 (株) 広告 1958年 (昭和33年) 東洋高圧工業 (株) 広告

"丸ツバメ"社紋の意味とその歴史

東洋高圧工業の肥料袋や化学肥料の原料を鉄道輸送していた私有貨車には、同社を象徴する社紋「丸ツバメ」が印刷や提示されていました。この社紋は戦時中に施行されていた農業資材統制が解除された際に従来の社紋「高圧」から新社紋へ変更することとなり、社内で公募したデザインの中から1950年 (昭和25年) に選定されました。

1949年 (昭和24年) 1954年 (昭和29年)
東洋高圧工業 (株) 広告 【旧社紋】 東洋高圧工業 (株) 広告 【新社紋】

「丸ツバメ」のデザインは、丸の図形が地球を象徴し、東洋高圧工業の頭文字「T」がツバメのように図案化されています。製品が益鳥ツバメのように全国各地に行き渡り親しまれ、さらに渡り鳥として遠く海外まで飛翔して欲しいという願いが込められています。この社紋は、東洋高圧工業 (株) から三井東圧化学 (株) への商号変更時に消滅しましたが、「丸ツバメ石膏ボード」という建材のブランド名として使用されていたようです。

東洋高圧工業 新社紋
(企業ロゴ画像の出典:企業広告より)
1970年 (昭和45年) 東洋高圧工業 (株) 製品広告

日本の化学肥料産業をけん引した東洋高圧工業の躍進

東洋高圧工業は、化学肥料の中で主流である窒素系化学肥料「尿素」について、全国シェアの30%を占めていました。また、設備の大型化により、化学肥料の原料であるアンモニアを低コストで生産できたため、アメリカのデュポン社をはじめ、イギリスや西ドイツなどの肥料メーカーに肩を並べる競争力がありました。アンモニアの年間生産量は、1965年 (昭和40年) が「39万トン」、1967年 (昭和42年) には「66万トン」となっていました。

化学肥料6大メーカーの尿素シェア
(参考:銀行員の産業知識) 
1965年 (昭和40年) 製品別生産高
(参考:銀行員の産業知識)

東洋高圧工業は、戦後の化学肥料 (硫安) 不足に迅速に対応しました。同時に、当時のソ連 (現在のロシア・ウクライナなど) は『多肥多収穫主義』を掲げ、農作物の増産を最優先の政策として推進していたため、地理的に近い日本から多くの化学肥料が輸入され、国内最大規模の東洋高圧工業大牟田工業所 (現在の三井化学大牟田工場) はもちろんのこと、他の工業所も化学肥料生産設備を増強しました。1966年 (昭和41年) 7月から、東洋高圧工業大阪工業所でも大型のアンモニア合成設備や尿素製造設備が稼働を開始し、世界的な化学肥料不足から出荷価格も高騰しました。そのため、1967年 (昭和42年) の不況時には一部の経済界から「儲かっているのは新幹線と東洋高圧だけ」と言われていました。

大坂工業所 アンモニア合成プラント
<AI Colorized> (画像出典:産業フロンティア物語)
(左) 1966年 (昭和41年) 東洋高圧工業 (株) 広告 <AI Colorized>
写真は大阪工業所の尿素工場、中央の塔は尿素造粒塔

東洋高圧工業は、自社製品の販売促進活動を積極的に行い、他社に先駆けて内需拡大のさまざまな取り組みを行っていました。農家への農業技術・農業経営を支援するために「丸ツバメ友の会」を立ち上げ、月100円 (現在の価値で約600円※1) の会費で、月刊誌「東圧の肥料」や新製品見本の送付、農事相談会・座談会・映画会の実施、そして希望者が多い場合には農事相談車「丸ツバメ号」を全国に派遣していました。

東洋高圧工業 (株) 製の化学肥料荷姿
(画像出典:近代化すすむ日本の企業)
1957年 (昭和32年) 「丸ツバメ友の会」入会案内

また、東洋高圧工業千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の独自の取り組みとして、工場近隣の農家でも東洋高圧工業が化学肥料を製造していることを知らない人もいることが分かり、東洋高圧工業の化学肥料製造事業を広く知ってもらうため、千葉工業所内で希望者を募り、総勢729名のうち約300名の社員が各所の農協を訪れてセールス活動を展開しました。この取り組みは1966年 (昭和41年) から始まり、製品の知名度向上に努めていました。

昭和40年代、日本の化学肥料産業の最盛期

1965年 (昭和40年) 時点の国内の化学肥料製造メーカーは、6大大手企業の東洋高圧工業 (現在の三井化学) をはじめ、日産化学工業 (株) (現在の日産化学)、宇部興産 (株) (現在のUBE)、三菱化成工業 (株) (現在の三菱ケミカル)、住友化学工業 (株) (現在の住友化学)、昭和電工 (株) (現在の昭和電工) など、中小零細企業を含めて86社以上が存在していました。(宇部興産、三菱化成工業、住友化学工業、昭和電工については、前章「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」の「苦境の三井東圧化学、大手4社の後塵を拝した経営戦略」で解説)

東洋高圧工業 (昭和34年) 広告 日産化学工業 (昭和38年) 広告 宇部興産 (昭和35年) 広告
三菱化成工業 (昭和39年) 広告 住友化学工業 (昭和38年) 広告 昭和電工 (昭和35年) 広告
昭和30年代 (1955年から1964年) の化学肥料6大メーカー広告

また、肥料袋や肥料袋の縫製用の専用ミシンや糸、肥料袋に詰める専用の機材を販売しているメーカーも30社以上もありました。


1963年 (昭和38年)
帝國絲業 (株) 広告
1961年 (昭和36年)
倉敷レイヨン (株)
※1 広告
1963年 (昭和38年)
(株) 長ミシン商会
※2 広告
(現社名 ※1:クラレ/※2:ニューロング工業)

化学肥料の輸入販売を行っていた商社は、三井物産 (株)、伊藤忠商事 (株)、三菱商事 (株)、丸紅飯田 (株) (現在の丸紅) など10社以上があり、当時の化学肥料業界の市場規模は大きかったと推測されます。なお、東洋高圧工業は1968年 (昭和43年) に同じ三井鉱山系の三井化学工業 (株) と合併し、三井東圧化学 (株) に商号変更し、現在は三井化学 (株) となっています。(三井化学工業については、ミニコーナー「三井化学工業の変遷と石油化学分野への展開」で解説)

(※:日銀消費者物価指数を基に換算)

時代の変化と化学肥料産業の転換期
戦後の肥料不足から好調に推移していた三井東圧化学 (株) の化学肥料は、競業他社も生産設備を増強していたため、生産過剰に陥りました。

1975年 (昭和50年) 頃になると、オイルショックや原料の高騰など国際事情の影響や化学肥料による環境汚染や生態系への悪影響も社会問題とされ、化学肥料を使わない有機農法や自然栽培への転換が進み、化学肥料は供給過多による大幅な値崩れを起こしました。主要肥料であった尿素の販売価格は大幅に下落し、約半分の価格となってしまいました。(参考動画:NHK for School 農薬や化学肥料を減らす工夫)

茂原市近郊でも行われている、化学肥料を使用しない有機農法のひとつ、アイガモ農法
(公道より筆者撮影)

大手化学メーカーの戦略転換、後手に回った三井東圧

国内の6大化学肥料メーカーの中で、三菱化成工業 (株) (現在の三菱ケミカル)、住友化学工業 (株) (現在の住友化学)、昭和電工 (株) (現在のレゾナック)、宇部興産 (株) (現在のUBE) は既に脱肥料化を進め、化学肥料分野を大幅に縮小して石油化学、アルミ、セメントなど他の新規分野に注力しており、これにより大幅な黒字を達成していました。(詳細については、前章「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」の「苦境の三井東圧化学、大手4社の後塵を拝した経営戦略」で解説)

1964年 (昭和39年) 三菱化成工業 (株) 1963年 (昭和38年) 住友化学工業 (株) 1960年 (昭和35年) 昭和電工 (株)
アルミニウム素材 広告

上記の4社は、化学肥料の売上比率が低く、業績にほとんど影響を与えていない一方で、三井東圧化学は肥料が売上の約20%弱を占めており、化学肥料の低迷が全体の業績を押し下げる要因となっていました。また、日産化学工業 (株) (現在の日産化学) も同様に化学肥料が売上の20%を占めていました。

1959年 (昭和34年) 三井東圧化学 (株) 1963年 (昭和38年) 日産化学工業 (株)
化学肥料 広告

ちなみに、1976年 (昭和51年) 時点で、各大手化学メーカーの肥料プラントの平均稼働率は、尿素などの化学肥料の原料であるアンモニアが60%台、尿素が37%と低迷しており、工場設備の半分は稼働していない状態でした。三井東圧化学の化学肥料製造部門における合理化は急務であり、関連会社である「東洋瓦斯化学工業 (株) 新潟工業所」も含め、一部の化学肥料製造プラントを廃棄し、生産を三井東圧化学大坂工業所 (現在の三井化学大阪工場) に集約していく方針を打ち出しました。(東洋瓦斯化学工業については、前章「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」の「二大ガス地帯への布石、東洋高圧工業 (株) の天然ガス戦略」で解説)

1958年 (昭和33年) 三井東圧化学 (株) 大坂工業所
(画像出典:新日本経済)
三井東圧化学 (株) 大坂工業所 全景
<AI Colorized> (画像出典:野田経済)


三井東圧化学の肥料部門の分社化と化学肥料事業の終焉
1981年 (昭和56年) 11月10日、三井東圧化学 (現在の三井化学) は化学肥料製造事業の合理化の一環として、化学肥料や合成培土、除草剤、殺虫剤などの製造・販売を行っていた肥料事業本部を分離独立させ、資本金20億円を投じて「三井東圧肥料 (株)」を設立しました。

1989年 (平成元年) 三井東圧肥料 (株) 製品広告
1994年 (平成6年) 三井東圧肥料 (株) 製品広告

三井東圧肥料の本社は東京都中央区日本橋にあり、工場は三井東圧化学北海道工業所 (現在の北海道三井化学)、三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場)、三井東圧化学大牟田工業所 (現在の三井化学大牟田工場) の各高度化成肥料プラントを三井東圧肥料へ移管し、それぞれ三井東圧肥料北海道工場 (北海道砂川市)、三井東圧肥料千葉工場 (千葉県茂原市)、三井東圧肥料大牟田工場 (福岡県大牟田市) となり、新たに竣工した三井東圧肥料岩手事業所 (岩手県八幡平市) を加えた4工場体制となりました。

三井東圧肥料 (株) 本社が入る、三井第七別館
<AI Colorized> (画像出典:実業往来)

三井東圧肥料が発足した背景には、三井東圧化学が慢性的な赤字に苦しんでおり、本体から将来の見通しが望めない化学肥料部門を切り離し、ファインケミカルなどの石油化学へ完全にシフトすることで、人員合理化や流通コストの削減などを進め、企業体質の改善を図りました。その後、三井東圧化学は1997年 (平成9年) 10月にかつて子会社であった三井石油化学工業 (株) に吸収合併され、現在の三井化学 (株) となりました。(合併の経緯については、前章「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」の「三井東圧化学の再建、組織変革と生産集約への取り組み」で解説)

1990年 (平成2年) 三井東圧化学 (株) 製品広告 1996年 (平成8年) 三井東圧化学 (株) 製品広告

苦境に立つ、日本の化学肥料事業

1999年 (平成11年) 頃になると、国の減反政策により米の生産調整が行われ、さらに化学肥料の需要低迷に追い打ちをかけられ、原油価格の高騰などで生産コストも上がり、大手の化学肥料製造部門は全社で赤字経営に陥っていました。化学肥料の原料となる大手化学メーカーのアンモニア合成プラントも相次いで廃棄され、操業停止が相次ぎました。

アンモニア・尿素生産工場分布図 [1995年 (平成7年) 11月1日現在]
(参考:内航近海海運)

1999年 (平成11年) 7月に三重県四日市の「三菱化学 (株) 四日市工場」(現在の三菱ケミカル四日市事業所)、翌2000年 (平成12年) 9月に千葉県茂原市の「三井東圧肥料 (株) 千葉工場」(現在の三井化学茂原分工場)、翌々年2001年 (平成13年) 3月には宮崎県延岡市の「旭化成 (株) 延岡工場」(現在の旭化成延岡支社愛宕事業場) が次々と肥料生産を休止し、同年10月に「三井東圧肥料 (株) 岩手事業所」は、岩手県八幡平市の「三研ソイル (株)」へ事業譲渡されました。

サンアグロ (株) 設立と幕を閉じた化学肥料生産の歴史

2007年 (平成19年) 4月、日産化学工業 (株) (現在の日産化学)、丸紅 (株)、三井化学 (株) (三井石油化学工業と三井東圧化学の合併により設立)、三井物産 (株) が連携して、化学肥料製造事業が統合され、新たに総合肥料会社である「サンアグロ (株)」が資本金17億9,100万円を投じて設立されました。出資比率は日産化学工業が42.4%、丸紅が22.8%、三井化学が19.9%、三井物産が14.9%となっています。

日産化学工業 (株) (平成8年) 広告

サンアグロは、日産化学工業と丸紅の化学肥料製造子会社である「日産アグリ (株)」(資本金9.79億円/売上高285億円/従業員数181名) が、三井化学傘下の「三井東圧肥料 (株)」(資本金5億円/売上高91億円/従業員数59名) の全株式を取得する形となり、日産アグリの100%出資子会社である「北海道日産化学 (株)」は「北海道サンアグロ (株)」と改称されました。

サンアグロ製化学肥料
サンアグロ製化学肥料
(画像出典:楽天市場)

この事業統合に伴い、三井東圧肥料大牟田工場の肥料生産は停止され、代わりにサンアグロの大阪工場および富山工場で生産が集約されました。三井東圧肥料北海道工場は、北海道サンアグロの砂川工場として存続しますが、休止状態だった三井東圧肥料茂原工場は事業継承されませんでした。

こうして、三井東圧化学の前身となった東洋高圧工業が創業直後の1935年 (昭和10年) から続けてきた三井グループの本格的な化学肥料の生産は、2007年 (平成19年) に72年の歴史の幕を閉じることとなりました。



次章「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1)」では、三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の歴史をたどります。前身となる東洋高圧工業千葉工業所は困難を乗り越えて建設され、後に三井東圧化学の主力工場となった経緯や、昭和40年代に隆盛を極めた三井東圧化学専用線 (起点: 茂原駅及び新茂原貨物駅) による鉄道輸送についても詳しく解説いたします。

(公開日:2024.01.21/更新日:2024.02.16)

三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1) 
三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢

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