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トップ - 特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」(目次)
廃線・廃止になった鉄路
工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて (8)
工業都市"茂原"を形成する主要企業について (1)
三井東圧化学株式会社 (現在の三井化学株式会社)

工業都市「千葉県茂原市」の主な主要企業の沿革
外房線茂原駅の南東に位置する「関東天然瓦斯開発 (株)」は天然ガスの採取・販売を行っており、この天然ガスを原料および燃料として効率的に供給するため、同社の半径2km圏内には化学工業の「三井東圧化学 (株) 千葉工業所」(現在の三井化学茂原分工場) および電子管工業の「(株) 日立製作所茂原工場」(現在のジャパンディスプレイ茂原工場) が位置しています。このエリアには、これら2社に関連する多数の関連会社や協力会社があり、企業城下町が形成されていました。茂原市を代表する各大手企業の成り立ちについて簡単に解説いたします。

1976年 (昭和52年) 茂原市内企業分布図
旧日立製作所 (旧日立茂原工場) は廃止、パナソニック液晶ディスプレイは2006年に誘致
国土地理院 五万分の一「茂原」(昭48) 加筆

このセクションでは、「三井東圧化学 (株) 千葉工業所」(現在の三井化学茂原分工場) の関連会社について詳しく解説します。次節「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (2) [日立製作所]」では(株) 日立製作所茂原工場、「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3) [関東天然瓦斯開発]」では関東天然瓦斯開発 (株) 茂原鉱業所について、付録「工業都市"茂原"を形成した主要企業について」では東芝コンポーネンツ (株) 茂原工場パナソニック液晶ディスプレイ (株) 茂原工場 (現在はジャパンディスプレイ茂原工場)、同和ジプサム・ボード (株) 茂原工場 (合同資源へ事業譲渡) をそれぞれ解説いたします。


三井東圧化学 (株) 千葉工業所と関連企業について
三井東圧化学 (株) 千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の前身に当たる「東洋東圧工業 (株) 千葉工業所」は、三井東圧化学の肥料・化学品製造の東日本エリアの拠点事業所として、1957年 (昭和32年) 7月に竣工しました。翌年の1月にメタノール工場の試運転が完了し、次々と各工場が本格的な操業を開始しました。 1968年 (昭和43年) 10月に東洋東圧工業 (株) は、同じ三井グループの三井化学工業 (株) を吸収合併し、三井東圧化学 (株) に商号変更しました。なお、東洋高圧工業と三井東圧化学の詳しい解説については、後章「東洋高圧工業の誕生から三井東圧化学に至る系譜」「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」などで詳しく解説していますので、ここでは割愛します。

1973年 (昭和48年) 三井東圧化学茂原工場 <正門付近>
<AI Colorized> (画像出典:茂原市中央の発達史)
正門より見えるツインタワーは尿素造粒塔
<AI Colorized> (画像出典:日化協月報)

三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の敷地内や隣接地には、同社の関連会社の施設も複数ありました。代表的な5社であった「東洋エンジニアリング (株)」、「東洋ビューティサプライ (株)」、「三井サイアナミッド (有)」(現在のMTアクアポリマー)、「三井製薬工業 (株)」(現在は沢井製薬に譲渡)、「東洋メラミン (有)」(後に三井東圧化学が吸収)、ミニコーナー「時代を先駆けた、三井東圧化学の緑化事業プロジェクト」では、三葉興産 (株) と園芸店「グリーンサンヨー」についてそれぞれ解説いたします。

1983年 (昭和58年) 三井東圧化学 (株) 千葉工業所及び関連会社 配置図 [位置は筆者の推定]
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると2016年 (平成28年) の画像に切り替わります]
国土地理院「茂原」(昭58/平28)加筆

なお、三井東圧化学は1997年 (平成9年) にはかつて三井化学工業の子会社であった三井石油化学工業 (株) に吸収合併され、現在は三井化学 (株) となっています。(三井化学の誕生の経緯については、後章「三井東圧化学を取り巻く、化学業界の情勢」で詳しく解説)


東洋エンジニアリング (株) 技術研究所 茂原研究センター
東洋高圧工業 (株) 千葉工業所 (後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) の製造工程および設備の設計、いわゆるプラント・プロセスエンジニアリングを担当していた工務部門は、1960年 (昭和35年) 5月に東洋高圧工業から分離独立し、資本金は3億円 (現在の価値で約72億円※1) で、東洋高圧工業 (現在の三井化学) が80%、大成建設が10%、三井物産が10%出資して、「東洋エンジニアリング (株)」が設立されました。

1970年 (昭和45年) 東洋エンジニアリング (株) 広告

主な事業内容は、化学肥料、石油化学、石油精製など各種プラントの設計、調達、建設、技術指導、メンテナンスなどです。国内では、総合エンジニアリング企業の大手2社である千代田化工建設 (株) と日揮 (株) (現在の日揮ホールディングス) が先行しており、後発の東洋エンジニアリングは、海外市場に注力することになります。

東洋エンジニアリング技術研究所茂原研究センターは、東洋高圧工業千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の通りを挟んで東側に位置していました。1993年 (平成5年) 現在、研究所員は61名で、敷地面積は19,400u (サッカーコート約2.8枚分※2)、本館1,860u、研究棟1,250uでした。現在は千葉市に移転し、跡地は住宅地になっています。


 
東洋エンジニアリング (株) 技術研究所 茂原研究センター
<AI Colorized> (画像出典:研究開発マネジメント)/国土地理院「茂原」(昭58)

1980年 (昭和55年) 時点、社員数は1,468名、海外事務所はニューヨーク・ロンドンを含む8ヵ所に設置されていました。経常利益は117億3,000万円、内純利益は84億4,800万円でした。受注先の97.5%は海外であり、国・地域別の割合はソビエト連邦 (現在のロシア連邦) が71.2%、北アフリカが17.6%を占め、残りは東欧・インド・東アジア・中近東・中国・中南米などでした。各分野の完成工事高 (割合) は、化学肥料プラントが618億円 (38.9%)、石油化学プラントが618億円 (38.9%)、石油精製プラントが440億円 (27.7%) となっています。受注残高は5,136億円で、これは日揮の4,299億円および千代田化工建設の3,286億円を上回り、多くの受注を受けていました。

1984年 (昭和59年) <AI Colorized>
1985年 (昭和60年) <AI Colorized>
東洋エンジニアリング (株) 広告

(※1:日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算/※2:FIFA推奨のサッカーコート105m×68m・7,140uで換算)

東洋ビューティサプライ (株) 千葉工場
東洋高圧工業 (後の三井東圧化学、現在の三井化学) は、前述の三井製薬工業 (株) が1971年 (昭和46年) が設立される前では、同じ三井グループ内で唯一の製薬会社であった「中滝製薬工業 (株)」 (現在のクラシエ薬品) と共に化粧品分野に進出するため、1964年 (昭和39年) 2月に化粧品の販売を行う「東洋ビューティサプライ (株)」を資本金1,000万円 (現在の価値で2,365万円※1) を投じて設立し、出資比率は東洋高圧工業が65%、中滝製薬工業が35%となっていました。(現在は、三井化学が100%出資)

東洋ビューティサプライの本社は東京都中央区日本橋 (三井第二別館) に位置し、当初の事業は中滝製薬工業が吸収合併した東洋高圧工業の子会社であった東洋製薬 (株) が研究開発していた老化防止剤である「ガンマオリザノール」を主成分としたシミやソバカスの対策に特化した化粧品「オーゼットビビアンテ」の販売が主でした。(中滝製薬工業や東洋製薬、ガンマオリザノールについては、ミニコーナー「三井グループの製薬会社「中滝製薬工業」」で解説)

1965年 (昭和40年) 東洋ビューティーサプライ (株)
オーゼットビビアンテ 広告
<AI Colorized>

1982年 (昭和57年) 2月には三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の隣接地に東洋ビューティサプライ千葉工場及び研究所が完成し、化粧品の製造を開始しました。その後、2010年 (平成22年) 6月からは健康食品の受託製造も始まり、2017年 (平成28年) 4月には東洋ビューティサプライ千葉工場の隣接地に化粧品第二工場が完成しました。

東洋ビューティサプライ (株) 千葉工場及び、研究所
(画像出典:Googleマップ)

(※1:日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)

三井サイアナミッド (有) 茂原工場 (現在のMTアクアポリマー 茂原工場)
三井東圧化学 (現在の三井化学) は、1976年 (昭和51年) 10月にポリアクリルアミド・架橋剤 (水溶性アミノ塗料原料用樹脂)、カシオン系樹脂などの化学品や合成樹脂の製造、輸出入、販売を目的として、アメリカの「アメリカン・サイアナミッド社」(以下、ACC社) と折半出資し、資本金5億円 (現在の価値で約6億5,000万円※1) で合弁会社「三井サイアナミッド (有)」を設立しました。

1984年 (昭和59年) 三井サイアナミッド (有) 広告

三井サイアナミッド茂原工場は、1978年 (昭和53年) 3月に三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) 内の北東部に竣工し、7月からポリアクリルアミドの製造 (年産3,600トン) を開始しました。また、10月からはサイメル (水溶性メラニン塗料・ハイソリッド形アミノ樹脂原料) の製造 (年産1,500トン) を関連会社の「東洋瓦斯化学工業 (株) 新潟工業所」に委託しました。(東洋瓦斯化学工業については、後章「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」の「二大ガス地帯への布石、東洋高圧工業 (株) の天然ガス戦略」で詳しく解説)

三井サイアミッド (有) 茂原工場
国土地理院「茂原」(昭58)

1985年 (昭和60年) 6月、東洋瓦斯化学工業新潟工業所が閉鎖され、生産設備は三井サイアナミッド茂原工場に移されました。その後、12月に三井サイアナミッドの本社が千代田区霞が関から港区虎ノ門に移転し、会社は株式会社化されました。1992年 (平成4年) にはサイメルの生産設備が拡充され、年産5,000トンとなりました。1994年 (平成6年) 4月にはACC社の化学品部門が「サイテック・インダストリーズ社」として独立したことで、社名が「三井サイテック (株)」に変更されました。

MTアクアポリマー (株) 茂原工場 (下) 及び、技術研究所 (上)
国土地理院「茂原」(平28)

2003年 (平成15年) 10月に米サイテック・インダストリーズ社との合弁を解消し、三井サイテックの事業は三井化学 (株) (三井石油化学工業と三井東圧化学の合併により設立) に引き継がれ、「三井化学アクアポリマー (株)」が設立されました。2006年 (平成18年) 10月、東亞合成 (株) が資本参加し、出資比率は東亞合成51%、三井化学49%となり、社名を現在の「MTアクアポリマー (株)」に変更しました。2022年 (令和4年) には現在の出資比率となる東亞合成90%、三井化学10%に変更されています。

(※1:日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)

三井製薬工業 (株) 千葉工場 (現在の沢井製薬 関東工場)
三井東圧化学 (現在の三井化学) は、1971年 (昭和46年) 8月に製剤分野に本格参入するため、抗生物質の輸入販売や解熱剤「アスピリン」の生産・販売を行っていた医薬品部門を分離独立させ、資本金5億円 (現在の価値で約11億円※1) で三井製薬工業 (株) (現在は沢井製薬に譲渡) を設立しました。

翌年の8月、三井グループは発展途上の医薬品部門を強化するため、東レを除く三井東圧化学、三井石油化学工業 (三井化学の母体)、ダイセルの製薬部門を三井製薬工業に一本化し、三井銀行 (現在の三井住友銀行)、三井信託銀行 (現在の三井住友信託銀行)、三井生命 (現在の大樹生命)、大正海上火災 (現在の三井住友海上)、三井物産など三井系12社が資本参加し、三井製薬工業の資本金は7億円 (現在の価値で約15億円※1) に増資されました。

1991年 (平成3年) 三井製薬工業 (株) 広告 1993年 (平成5年) 三井製薬工業 (株) 広告

三井製薬工業千葉工場は、三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の北側隣接地に1973年 (昭和48年) 4月に竣工し、既存の薬12品目の生産を開始しました。この年の売上は20億円 (現在の価値で約36億円※1) に達しました。また、新薬の研究開発を行う「生物化学研究所」を工場の西側に約10億円 (現在の価値で約18億円※1) を投入して新設しました。

 
1975年 (昭和50年) 1983年 (昭和58年)
三井製薬工業 (株) 千葉工場 (上) 及び、生物化学研究所 (下)
国土地理院「茂原」(昭50/昭58)

しかし、生物化学研究所での新薬の研究開発費に24億円 (現在の価値で約43億円※1) に及ぶ巨額投資などで財政状態が悪化し、2001年 (平成13年) に三井製薬工業は日本シエーリング (株) (現在のバイエル薬品) に売却され、さらに2005年 (平成17年) には沢井製薬 (株) に譲渡され、三井製薬工業千葉工場は現在「沢井製薬関東工場」となっています。その後、沢井製薬は隣接していた茂原農業高校 (現在の茂原樟陽高校) の演習農場と旧茂原工業高校 (現在の茂原樟陽高校) のグランドの一部を取得し、関東工場を拡張しています。

2016年 (平成28年) 沢井製薬 (株) 関東工場 [拡張後]
国土地理院「茂原」(平28)

(※1:日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算)

東洋メラミン (有) 千葉工場 (旧称は東洋サイアナミド千葉工場)
東洋高圧工業 (後の三井東圧化学、現在の三井化学) は、1965年 (昭和40年) 1月、アンモニアを有効利用するためにアメリカの「アメリカン・サイアナミド社」(以下、ACC社) より技術供与を受け、尿素メラミン樹脂の生産を行うための合弁会社「東洋サイアナミド (有)」を資本金3億3,200万円 (現在の価値で約8億7,700万円※1) で設立し、社員数59名、出資比率は東洋高圧工業51%、ACC社49%となっていました。

東洋サイアナミド千葉工場は、翌1966年 (昭和41年) 1月に建設費9億3,200万円 (現在の価値で約21億8,200万円※1) を投じ、東洋高圧工業千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の敷地内の中央エリアで着工され、竣工後は年産6,000トンで売上額が7〜8億円 (現在の価値で約16億〜19億円※1) となっていました。

1975年 (昭和50年) 東洋メラミン (有) 千葉工場
工場は東洋高圧工業 (株) 千葉工業所の中央部にあった
国土地理院「茂原」(昭50)

1967年 (昭和42年) 9月、ACC社から経営権を譲渡され、社名を「東洋メラミン (有)」に変更し、三井東圧化学の子会社となりました。そして、1970年 (昭和45年) にはドイツの「BASF社」からの技術支援を受け、大阪府堺市の三井東圧化学大阪工業所 (現在の三井化学大阪工場) 内に年産2万8,000トンの「東洋メラミン大阪工場」を新設し、さらに東洋メラミン千葉工場も年産8,000トンに生産設備を拡充しました。

1969年 (昭和44年)、メラミン製造メーカー各社は、通商産業省 (現在の経済産業省) から、尿素メラミンの国際競争力確保のために、設備の大型化と生産の集約化による市場安定化が要請されました。尿素メラミン製造は、東洋メラミン (株)、日産化学工業 (株) (現在の日産化学)、鹿島メラミン(株) ※3の3社に集約され、合計生産能力は年産5万9,000トンとなりました。

1971年 (昭和46年) 以降、委託生産分 (年産) の割り当ては、東洋メラミン千葉工場 (後に東洋メラミン大阪工場も加わる) が、揖斐川電気工業 (現在のイビデン) 向けに6,000トン、電気化学工業 (現在のデンカ) 向けに3,000トン、富山県富山市にある日産化学工業富山工場 (現在の日産化学富山工場) は、昭和電工 (現在のレゾナック) 向けに3,000トン、製鉄化学工業 (現在の住友精化) 向けにも予定され、茨城県神栖市の鹿島メラミンは日本カーバイド工業向けに2万4,000トンとなっていました。1972年 (昭和47年) 10月、東洋メラミンは三井東圧化学によって吸収合併されました。

その後、メラミンの需要が低迷し、また安価な海外製品が国内市場に流入したため、1980年 (昭和55年) 10月に工場が一時休止されました。その後も好転の見通しが立たず、1981年 (昭和56年) 5月に工場は廃止されました。工場跡地にはその後、医療品やヘアケア製品などの原料となるシステアミンの工場が1983年 (昭和58年) 6月に竣工しました。

(※1:日銀企業物価指数を基に現在の価値に換算/※2:FIFA推奨のサッカーコート105m×68m・7,140uで換算)
(※3:三菱油化<現・三菱ケミカル>と日本カーバイド工業の合弁会社・1979年<昭和54年>3月30日解散


次節「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (2) [日立製作所]」では、「(株) 日立製作所茂原工場」(現在のジャパンディスプレイ茂原工場) に焦点を当てます。前身となる「理研真空工業茂原工場」の設立から、その後「日立製作所茂原工場」として、テレビの普及とともにブラウン管技術で大きな進展を遂げ、 「日立ディスプレイズ茂原事業所」を経て、現在の「ジャパンディスプレイ茂原工場」に至る経緯について詳しく説明いたします。

また、ミニコーナー1「輝く郷土愛、日立DP・茂原アルカスのバレーボールVリーグへの軌跡」として、日立製作所茂原工場の女子バレーボール部を母体として誕生し、バレーボールVリーグへの昇格を果たした「茂原アルカスバレーボールチーム」について、そして、地元の偉人であり、理化学研究所の第3代所長である大河内正敏博士が、理化学研究所 (理研) の研究成果を企業化し、日立製作所茂原工場を含む事務機器・光学機器の大手企業であるリコーや、わかめスープで有名な理研ビタミンの設立にも深く関わった「理研コンツェルン」についてもミニコーナー2「日立茂原工場の源流、理研コンツェルンが拓いた日本産業の未来」として紹介いたします。

(公開日:2024.01.21/更新日2024.04.12)

工業都市"茂原"を形成する主要企業について (2) 
茂原市の商業地区の発展と変遷について (2)

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