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外房線 (JR東日本・千葉支社) ガイド・ファンサイト
〜 地元 「外房線」に関する歴史・車両などを紹介したサイトです 〜 |
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廃線・廃止になった鉄路
工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて (9) |
工業都市"茂原"を形成する主要企業について (2) |
株式会社日立製作所 (現在は株式会社ジャパンディスプレイ) |
前節「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (1) [三井東圧化学]」では、三井東圧化学 (株) 千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の関連企業について解説しました。この節では、三井東圧化学千葉工業所と同様に、茂原の2大リーディングカンパニーのひとつとして市内南東部に位置する「(株) 日立製作所茂原工場」(現在のジャパンディスプレイ茂原工場) の歴史について簡単に解説いたします。
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1962年 (昭和37年) (株) 日立製作所茂原工場全景 |
<AI Colorized> (画像出典:日立電子管ハンドブック) |
手前から、関東天然瓦斯開発茂原鉱業所、国道128号線、一宮川、日立茂原工場 |
また、ミニコーナーでは、日立製作所茂原工場の女子バレーボール部が母体となった、「輝く郷土愛、日立DP・茂原アルカスのバレーボールVリーグへの軌跡」や、「日立茂原工場の源流、理研コンツェルンが拓いた日本産業の未来」を紹介しています。
日立製作所茂原工場の原点、理研真空工業の創立と歩み
「(株) 日立製作所茂原工場」(以外、日立茂原工場) の前身となる「理研真空工業 (株) 茂原工場」(後の日立町保工場)は、現在の茂原総合市民センターが立地するエリアに、1936年 (昭和11年) 4月に竣工し、敷地面積は52,800u (東京ドーム約1.1個分※1) で、同年7月より従業員347名で操業を開始しました。なお、同様に夷隅郡大多喜町にも「理研真空工業 (株) 大多喜工場」が設置されました。
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理研真空工業 (株) 茂原工場 全景 |
現在、右に見えるガスタンクは公園 (Googleマップ) |
<AI Colorized> (画像出典:ふるさと茂原のあゆみ) |
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理研真空工業 (株) 大多喜工場 全景 |
現在この場所は、大多喜病院 (Googleマップ) |
<AI Colorized> (画像出典:皇国新地誌) |
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理研真空工業茂原工場と理研真空工業大多喜工場では、次節「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3) [関東天然瓦斯開発]」で解説する「大多喜天然瓦斯 (株)」(現在の関東天然瓦斯開発) が採掘した天然ガスを燃料や動力として活用していました。
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1955年 (昭和30年) 県道84号茂原長生線 <完成時> |
<AI Colorized> (画像出典:千工三十年史) |
東洋高圧工業の九十九荘より、日立町保工場を見る
前方に見える十字路の左から右向かう道路が、町保通り |
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現在の県道84号茂原長生線 |
(画像出典:Googleマップ) |
左手に見えた日立町保工場の天然ガスホルダーは
現在、総合市民センター内の公園になっている |
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理研真空工業茂原工場では、一般照明用電球、特殊電球、無線電信電話用真空管、特殊真空管などを製造し、一方で理研真空工業大多喜工場では電球や真空管に用いるガラスや金具
(バルブ) の製造を担当していました。両工場は、1日あたり1万5,000立方メートルの天然ガスを、大多喜天然瓦斯茂原鉱業所および大多喜鉱業所から供給されており、購入価格は現在の価値で58万円から78万円 (※2) となっていました。
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1937年 (昭和12年) 頃、理研真空工業茂原工場で
電球製造中の女性従業員 |
1936年 (昭和11年) 7月14日、理研真空工業茂原工場の
バルブ製作工程を視察する商工大臣 (現・経済産業大臣) |
<AI Colorized> (画像出典:石油時報/燃料国策と理研の大多喜天然瓦斯に就て) |
「理研真空工業 (株)」は、1935年 (昭和10年) 7月に資本金300万円 (現在の価値で約26億円※2) で東京都日本橋で設立されました。当初の従業員数は530名で、工場は3か所ありました。東京都大田区には電球を製造する理研真空工業大森工場、千葉県内には前述の理研真空工業茂原工場と理研真空工業大多喜工場があり、また市川市には無線機を製造する理研真空工業市川工場が新設されました。
品目 |
年産 |
品目 |
年産 |
一般照明用電球 |
1,500万個 |
特殊真空管類 |
3,000個 |
特殊電球 |
12万個 |
バルブ類 |
1,600万個 |
無線電信電話用送信真空管 |
1万個 |
硝子管類 |
7万5,000s |
無線電信電話用受信真空管 |
5万個 |
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1938年 (昭和13年) 理研真空工業 (株) 製造品目と生産量 |
従業員数: 大森工場139名 / 茂原工場347名 / 大多喜工場125名 |
(参考:躍進日本之工業) |
ちなみに、蛍光表示管製造やホビー用ラジコンなどを手がける大手企業で、茂原市大芝に本社を置く双葉電子工業 (株) の創業者は、理研真空工業の出身者となっています。
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双葉電子工業 広告 |
1959年 (昭和34年) |
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理研真空工業の原点となる「山田電球製作所」は、明治末期に東京都巣鴨 (現・豊島区) で開業しました。その後、1920年 (大正9年) に「東洋電球
(株)」を資本金50万円 (現在の価値で2億5600万円※2) で設立し、当時の従業員数は142名で電球製造を行いました。1925年 (大正14年) 8月には、東京都芝 (現・港区) で同じく電球製造を行っていた「関東電気
(株)」と合併し、「大同電気 (株)」となりました。
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1925年 (大正6年) 山田電球製作所 広告 |
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1925年 (大正14年) 東洋電球 (株) 広告 |
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1930年 (昭和5年) 2月、新たに電球や乾電池を製造する新会社「東洋電気 (資)」を資本金5万円 (現在の価値で約4,860万円※2) で設立しました。7月に大同電気は以前から協業関係にあった「東京電気
(株)」(現・東芝) が吸収合併しました。
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1929年 (昭和4年) 東洋電気 (資) 広告 |
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1933年 (昭和8年) 東洋電気 (資) 広告 |
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その後、東洋電気は事業拡張を目指し、1935年 (昭和10年) 7月には、「大多喜天然瓦斯」(現・関東天然瓦斯開発) の顧問であり、理化学研究所
(理研) の所長で新興財閥「理研コンツェルン」の中心人物である大河内正敏博士の後援を受けて、「理研真空工業 (株)」を新たに設立し、東洋電気を吸収合併しました。大河内正敏博士は会長に就任し、理研コンツェルンの傘下となりました。(大河内正敏博士については、「ミニコーナー: 日立茂原工場の源流、理研コンツェルンが拓いた日本産業の未来」で詳しく解説)
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理研の良い電球・無線機器・送受信真空管 |
1938年 (昭和13年)※3 |
1939年 (昭和14年) |
1940年 (昭和15年) |
理研真空工業 (株) 製品広告 |
(※1:東京ドーム47,000u・14,217坪で換算/※2:日銀企業物価指数を基に換算/※3:AI Colorized) |
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理研コンツェルンから日立製作所傘下へ
1940年 (昭和15年) 5月、理研真空工業 (株) (従業員2,600名) は株式の50%を (株) 日立製作所 (以下、日立) へ譲渡し、理研コンツェルンから日立の傘下となりました。
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左から、
・回転変流機
・堅軸型発電機
・油入遮断機
・単相油入自冷式変圧器
・堅軸型水車
・鉄道省EF52形電気機関車 |
1929年 (昭和4年) (株) 日立製作所 製品広告 |
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この株式譲渡の背景には、理研真空工業が以前から旧日本陸軍から生産設備の拡張を求められていたことがあります。しかし、当時の理研真空工業は経営状態が芳しくなく、拡張に必要な資本金を300万円から3,000万円
(現在の価値で約157億円※1) に増資することが困難でした。
戦前の日立は発電機、電力伝送、配電システムなど、いわゆる「重電」(重電力) メーカーでしたが、電子工業と呼ばれる「弱電」(弱電力) の分野において、真空管
(ブラウン管) の利用に将来性を感じ、管球部門への進出を模索していました。日立は理研真空工業の経営状況を把握した上で、戦略的な判断を下して経営参画を決断しました。その結果、理研真空工業茂原工場は拡張され、そして12月には旧日本陸軍の秘密工場として指定されました。
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1943年 (昭和18年) 理研真空工業 (株) 広告 |
形状から観測用ブラウン管 (オシロスコープ用) だと思われる |
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左: |
1942年 (昭和17年) 理研真空工業 (株) 広告 |
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イラストには旧陸軍の一式陸上攻撃機 (一式陸攻) 風の飛行機 |
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1943年 (昭和18年) 9月、戦時企業整備の一環として、理研真空工業は国の施策により日立に吸収合併されました。この合併に伴い、「理研真空工業茂原工場」は「日立製作所茂原工場」となり、大多喜工場は日立製作所茂原工場の分工場となりました。
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拡張後の理研真空工業 (株) 茂原工場 (町保地区)
(現在は茂原総合市民センター、右下には天然ガスタンク) |
<AI Colorized> (画像出典:日立評論) |
なお、理研真空工業は戦後、1948年 (昭和23年) に日立から分離独立し、東京都目黒区や茨城県新治郡千代田村 (現・かすみがうら市) に新工場を設置しました。台湾では三井物産と合弁会社を設立し、クリスマス装飾用電球や一般向け電球の製造・販売を手がけていましたが、現在は製造業から貸倉庫業に転換したと推察されます。
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1963年 (昭和38年) 理研真空工業 (株) 広告 |
(※1:日銀企業物価指数を基に換算) |
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日立製作所茂原工場、早野地区に新工場を設立
日立は、従業員が470名となり日立茂原工場が手狭になったため、1943年 (昭和18年) 7月に茂原駅南東部の早野地区に工場用地を300,000u
(東京ドーム約6.4個分※1) 取得し、1944年 (昭和19年) 7月に新たに「日立早野工場」(現在のジャパンディスプレイ茂原工場) を増設しました。
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(株) 日立製作所茂原工場 配置図 |
国土地理院 五万分の一「茂原」(昭48) 加筆 |
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増設された、(株) 日立製作所早野工場 (後の茂原工場) |
<AI Colorized> (画像出典:戦後県政の歩み) |
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当サイトでは便宜上、増設された日立早野工場を「日立茂原工場」とし、旧理研真空工業茂原工場である日立茂原工場を「日立町保工場」と呼称させていただきます。また、大多喜工場は日立町保工場の分工場となり、1950年
(昭和25年) 4月に閉鎖されています。
(※1:東京ドーム47,000u・14,217坪で換算) |
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戦時統制下における日立製作所と工場被害の実態
1944年 (昭和19年) 1月、日立茂原工場と日立町保工場は当時の陸軍省、海軍省、軍需省の共同管理下となり、軍需工場として電波探索機用エーコー管、電波探知機用ブラウン管、電球などの軍需品
(23万1,977個) の製造が行われていました。
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[戦時下] (株) 日立製作所茂原工場 配置図 |
大日本帝國陸地測量部「茂原」(昭19) 加筆 |
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日立町保工場の事務所 |
<AI Colorized> (画像出典:もばら風土記) |
戦時中に屋根の上に設置されたと思われる監視塔が見える |
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太平洋戦争中の日立の各事業所の戦災は、1945年 (昭和20年) 1月9日に東京都武蔵野市吉祥寺にあった「中央研究所寄宿舎」が空襲で被爆したことから始まり、6月10日には茨城県日立市の「日立工場」(現・日立事業所)
がB29大型戦略爆撃機約120機から1トン爆弾を含む約500発を投下される大空襲を受け、7月には同じく日立市にあった「多賀工場」(現・日立産機システム多賀事業所)
なども含め、日立の関連工場が海上からの艦砲射撃や焼夷弾による空襲でピークに達しました。そして戦争終結の2日前の8月13日に「茂原工場」(日立町保工場)
への爆撃が最後となり、合計で25回の攻撃を受けました。
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日立製作所グループ 戦災による被害一覧 (抜粋) |
(参考:日立製作所史/日立製作所全貌/日本の電気機械 日立製作所/日本の大企業)
(被害額は日銀企業物価指数を基に換算) |
戦前・戦中は上記5工場以外に水戸工場 (茨城県勝田市)・清水工場 (静岡県清水市)・桑名工場 (三重県桑名市)・木津川工場 (大阪府大正区)・深川工場
(東京都江東区)・戸塚工場 (神奈川県横浜市)・川崎工場 (神奈川県川崎市)・摂津工場 (大阪府摂津市)・尼崎工場 (大阪府尼崎市) が存在し、小規模だった木津川工場と摂津工場の分工場などは焼失、終戦後は統廃合が行われている。 |
被害が最も大きかったのは、日立工場 (現・日立事業所)、笠戸工場 (現・笠戸事業所)、多賀工場 (現・日立産機システム多賀事業所) でした。また、1945年
(昭和20年) 3月10日の東京大空襲でも亀戸工場周辺 (跡地は亀戸中央公園) が火の海となりましたが、同工場の消防団の機能により軽微な損害で済みました。茂原工場関連では、小規模だった大森分工場
(旧・理研真空工業大森工場) は同年4月の空襲で焼失し、町保工場 (跡地は茂原総合市民センター) は、7月8日に米軍の艦載機から投下された小型爆弾が直撃し、事務所が半壊し、負傷者が出ましたが、他の日立の工場と比較して工場の損失は比較的軽微でした。また、日立の工場は競合他社の軍需工場と比べて被害額が比較的少なかったと言えます。
戦後の日立製作所茂原工場、電子技術の革新とテレビジョン時代
戦後、日立茂原工場では日産80kgの電気製塩の生産を行い、食料危機に対応しました。その後、電子管専門工場として受信用真空管、テレビ用受信管、観測用ブラウン管、送信管、受信管などの製造を再開しました。一方、日立町保工場では月産55万6,000個の電球の製造を行っていました。
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1949年 (昭和24年) (株) 日立製作所 広告 |
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1964年 (昭和39年) (株)日立製作所茂原工場 広告 |
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1951年 (昭和26年) 9月以降、民放ラジオ局の開局が相次ぎ、民放ラジオブームが到来しました。日立茂原工場は5億4千万円 (現在の価値で約12億9,000万円※1) をかけて設備を更新し、ラジオ受信機などで使用する真空管の増産を開始しました。1952年 (昭和27年) 下期には真空管の生産数が10万個を突破しました。この頃、ラジオ受信機は全国で1,000万台を超え、普及率は63.6%に達しました。日立の真空管は高品質であったため、1957年
(昭和32年) の第一次南極観測隊の無線機器に使用されました。
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日立真空管「5BQ5」(電力増幅5極管) |
<AI Colorized> (画像出典:家庭電器ハンドブック)
(参考:日立電子管ハンドブック) |
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1948年 (昭和23年) 日立受信用真空管 広告 |
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この頃、テレビジョン時代を見据えて開発を進めていた第1号ブラウン管が完成し、電子工業技術を確立していきました。
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日立第1号テレビジョン用ブラウン管「12LP4A」 |
<AI Colorized> (画像出典:日立評論) |
なお、電球などの照明器具については、1951年 (昭和26年) 4月に日立町保工場の蛍光管ランプ製造を日本電気化学 (株) (旧・日本電気化学研究所)
に委託。同社は1952年 (昭和27年) 4月に日立系傘下に入り、1954年 (昭和29年) 5月に「日立蛍光ランプ (株)」へ社名変更。1955年
(昭和30年) 11月に日立町保工場の電球製造部門を同社の品川区にあった東京工場に移管し、1956年 (昭和31年) 12月に社名を「日立ランプ
(株)」へ変更しました。日立町保工場はこの頃に廃止されたと思われます。
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日立ランプ (株) 小田原工場 |
<AI Colorized> (画像出典:工事画報) |
その後、日立ランプ (株) は、1999年 (平成11年) 10月に (株) 日立アーバンインベストメントに吸収合併され、2020年 (令和2年)
4月に (株) 日立ライフと合併し、現在は「(株) 日立リアルエステートパートナーズ」となっています。
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1958年 (昭和33年) 日立製作所 広告 |
30万円は現在の価値で約180万円 ※2 |
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1978年 (昭和53年) 日立製作所 広告 |
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(※1:日銀企業物価指数を基に換算/※2:日銀消費者物価指数を基に換算) |
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日立製作所茂原工場の最盛期、ブラウン管時代から液晶ディスプレイへの展開
日立は、テレビ放送が始まった1950年代 (昭和25年から昭和34年) 初期において、テレビジョン用ブラウン管製造会社として国内唯一の存在でした。そのため、日立茂原工場で製造されたブラウン管が、現在のパナソニック・東芝・シャープなど国内のテレビ製造メーカーへ独占的に供給されていました。
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1956年 (昭和31年) テレビジョン用受像管「日立14HP4」(14形・70度偏向・静電集束) 供給先一覧表 |
(参考:日立電子管ハンドブック/テレビジョンセット製作資料集) |
参考: 日立製ブラウン管「14HP4」使用モデルの一例 |
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ナショナル「T-1451」 |
シャープ「TV-550」 |
東芝「14DE」 |
三菱「14T-210」 |
1956年 (昭和31年) 当時、主力の14インチ白黒テレビ (17インチもありました) |
<AI Colorized> (画像出典:テレビジョンセット製作資料集) |
ちなみに、NHKのテレビ放送は1953年 (昭和28年) 2月1日に東京地区で開始され、1日4時間の放送で契約数は866件でした。民放は日本テレビが1953年
(昭和28年) 8月28日に開局しています。
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1956年 (昭和31年) 日立テレビ (白黒14/17インチ) 広告
右上の新発売14インチ「F-500型」は、現在の価値で約45万円※1
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日立ブラウン管 広告 |
1956年 (昭和31年) |
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1957年 (昭和32年) 日立製作所製品カタログ (抜粋) |
その後、日立茂原工場では生産設備の拡張が続き、1954年 (昭和29年) に日本初となる全館空調完備の電子管 (受信管) 工場が新設 (9,000u・サッカーコート約1.3枚分※2) されました。1957年 (昭和32年) にはブラウン管工場が新設され、1958年 (昭和33年) から1959年 (昭和35年) にかけてブラウン管工場が増床
(8,000u・サッカーコート約1.1枚分※2) され、1959年 (昭和34年) に特殊管工場が新設されました。
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昭和40年代の (株) 日立製作所茂原工場 (規模拡張後) |
<AI Colorized> (画像出典:実業の世界) |
1960年 (昭和35年) にブラウン管の研究を行う研究部が設置され、当時の日立茂原工場には約4,000名の従業員が在籍していました。(当時の茂原市の人口は3万9,858人)
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(株) 日立製作所茂原工場 <受信管組立室> |
<AI Colorized> (画像出典:戦後県政の歩み) |
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(株) 日立製作所茂原工場 <受信管継線室> |
<AI Colorized> (画像出典:鉄道通信) |
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1966年 (昭和41年) 時点で、日立茂原工場は電子管工場としては当時国内最大規模で、年間の売上額は約100億円 (現在価値で約229億円※3) と推定されていました。部品や製品の物流については、トラック輸送と鉄道輸送 (茂原駅〜工場間はトラック運送) が併用されていました。(詳細については後章「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」の「貨物発着量増加に伴う茂原駅の拡張」を参照)
1970年 (昭和45年) 8月に、カラーブラウン管の専門工場として日立茂原工場の分工場である日立佐倉分工場が千葉県佐倉市に新設され、従業員数は約700名が在籍していました。日立茂原工場は1991年
(平成3年) 時点で、敷地総面積は約40万3,000u (東京ドーム約8.6個分※4) であり、従業員は約8,000名が在籍し、当時千葉県内では京葉臨海工業地帯にある川崎製鉄千葉製鉄所 (現・JFEスチール東日本製鉄所) と肩を並べる千葉県内最大規模の工場の一つでした。
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(株) 日立製作所茂原工場 全景 |
(千葉県茂原市早野) |
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(株) 日立製作所佐倉分工場 全景 |
(千葉県佐倉市太田) |
(画像出典:日立製作所史) |
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その後、日立茂原工場は、テレビ用のブラウン管製造からノートパソコン、携帯電話、デジタルカメラなどに使われる液晶ディスプレイなどの中小型液晶パネル製造にシフトし始め、1984年
(昭和59年) には半導体工場が、1994年 (平成6年) および1997年 (平成9年) にはTFT (薄膜トランジスタ) 製造のV1工場とV2工場が、そして2001年
(平成13年) には最新のTFT液晶表示素子を製造するV3工場が次々と竣工しました。
(※1:日銀消費者物価指数を基に換算/※2:FIFA推奨のサッカーコート105m×68m・7,140uで換算)
(※3:日銀企業物価指数を基に換算/※4:東京ドーム47,000u・14,217坪で換算) |
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「日立ディスプレイズ」から「ジャパンディスプレイ」へ、次世代液晶の時代
2002年 (平成14年) 10月1日に、日立のディスプレイ事業が分社化され、(株) 日立ディスプレイズが新たに発足し、(株) 日立製作所茂原工場は「(株) 日立ディスプレイズ茂原事業所」となり、日立の子会社となりました。
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(株) 日立ディスプレイズ茂原事業所 全景 |
写真上部に見える建屋は、 (株) IPSアルファテクノロジ本社工場 |
(画像出典:日立DP会社案内パンフレット) |
液晶テレビ用の大型液晶パネル製造 (32型以上) については、2005年 (平成17年) 1月に、日立製作所、松下電器産業 (現在のパナソニック)、東芝の合弁会社として設立された新会社「IPSアルファテクノロジ (株)」に移管されました。日立ディスプレイズ茂原事業所では、携帯電話、デジタルカメラ、ノートパソコンなどデジタル機器向けの小・中型液晶パネルの製造や、次世代TFT
(薄膜トランジスタ) やOLED (有機EL) 製品の開発に注力し、2010年 (平成22年) 6月時点で資本金は352億円、売上高は1,562億円となっていました。(IPSアルファテクノロジについては、付録「工業都市"茂原"を形成した主要企業について [パナソニック液晶ディスプレイ]」で詳しく解説)
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有機ELディスプレイ |
フレキシブルディスプレイ |
液晶表示素子生産ライン |
(画像出典:日立DP会社案内パンフレット) |
2012年 (平成24年) に、日立・東芝・ソニーの中小型液晶ディスプレイ事業が統合され、日立のディスプレイ事業は同年に設立された「(株) ジャパンディスプレイ」へ全て移管されました。日立ディスプレイズ茂原事業所は「ジャパンディスプレイ茂原工場」となり、佐倉分工場は閉鎖され、現在に至っています。(ジャパンディスプレイについては、ミニコーナー「工業都市・茂原市の現在地、カギを握るJDIの再興と挑戦」で解説)
ミニコーナー: 輝く郷土愛、日立DP・茂原アルカスのバレーボールVリーグへの軌跡
かつて、バレーボールVリーグに参戦し、(株) 日立製作所茂原工場 (以下、日立茂原工場) の女子バレーボール部を前身とする「茂原アルカスバレーボールチーム」がありました。
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チームロゴキャラクター、イルカのアルフィン |
(チームロゴは茂原アルカスバレーボールチームに帰属します) |
このバレーボールチームは、1971年 (昭和46年) に日立茂原工場の従業員とその家族の連携を醸成するシンボルスポーツとして創部されました。日立茂原工場・女子バレーボール部は実業団チームとしても強豪で、創部2年後には千葉県で開催された若潮国体の強化チームに指定され、翌年には実業団リーグ入りしました。そして、1979年
(昭和54年) には日本リーグへ昇格し、通算で日本リーグには2回、実業団リーグには17回出場し、常に安定した実力で活躍していました。
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第5回 V1リーグ茂原大会・広島大会 (2003年) |
(画像出典:茂原アルカスHP) |
2002年 (平成14年) に、母体の「日立茂原工場」が日立ディスプレイズ茂原事業所」に移行した際に、チーム名を「茂原アルカスバレーボールチーム」(以下、茂原アルカス) に改名しました。そして、翌年の2003年 (平成15年) にはV1リーグから念願のVリーグへ昇格を果たしました。
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Vリーグ昇格を祝う、チーム関係者 |
(画像出典:茂原アルカスHP) |
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チームの練習拠点「日立健保体育館」(茂原市下永吉) |
※現在は更地 (出典:Googleマップ) |
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チーム名「アルカス」の由来は、春の星座である酒神ディオニューソスの杯を象徴するコップ座を形成する星「アルカス」から名付けられます。この星は実光度が太陽の50倍にもなる恒星であり、学名は「α
Crateris」で、アラビア語で"杯 (カップ)"を意味しています。また、「ALUKAS」(アルカス) を逆から読むと「SAKULA」(サクラ)
になりますが、これは当時日立茂原工場の分工場であった千葉県佐倉市の佐倉工場との一体性を示すダブルミーニングとなっています。
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Vリーグ (対久光製薬・スプリングス戦) |
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Vリーグ (対パイオニア・レッドウィングス戦) |
(画像出典:茂原アルカスHP) |
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当時、Vリーグには同じ日立製作所グループで日立製作所佐和工場 (現・日立製作所Astemo佐和工場) を母体としたチームである「日立佐和リヴァーレ」(現・日立Astemoリヴァーレ)
も参戦していましたが、地域密着型チームを目指して、あえて企業名の「日立」を冠さず「茂原アルカス」となりました。
茂原アルカスは、茂原市やその近隣地域でバレーボール教室を実施したり、茂原七夕まつり期間中には、茂原アルカスの選手たちが日立連と連携して踊ったり、特設ステージでPR活動を行ったりするなど、地域活動にも積極的に取り組んでいました。(茂原七夕まりつについては、ミニコーナー「写真で振り返る「茂原七夕まつり」の歴史や見どころ」」で紹介)
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バレーボール教室 |
(画像出典:茂原アルカスHP) |
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茂原七夕まりつ・日立連 |
(画像出典:ちば県民だより/日立DP会社案内) |
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残念ながら、母体である日立ディスプレイズの業績悪化により、2006年 (平成18年) 5月31日をもって、惜しまれつつ茂原アルカスは廃部となりました。
ミニコーナー: 日立茂原工場の源流、理研コンツェルンが拓いた日本産業の未来
戦前、日立製作所茂原工場の前身となる、理研真空工業茂原工場が属していた新興財閥「理研コンツェルン」について簡単に解説いたします。(理研真空工業茂原工場については、前述「(株) 日立製作所 茂原工場」を参照)
理化学研究所第3代所長、大河内正敏博士の人物像
理研コンツェルンの創始者である大河内正敏博士 (明治11年〜昭和27年) は、物理学者であり、東京帝国大学 (現在の東京大学) の教授でもあり、現在の「国立研究開発法人理化学研究所」の前身である「財団法人理化学研究所」(以下、理研) の第3代所長として、1921年 (大正10年) から1946年 (昭和21年) まで務めた人物でした。
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昭和初期の財団法人理化学研究所 (正門/全景) |
<AI Colorized> (画像出典:理研50年) |
また、大河内正敏博士は貴族院議員でもあり、父親が旧大多喜藩主という華族出身の子爵であることも特筆されます。大河内正敏博士が中心となって、幼少時代を過ごした千葉県夷隅郡大多喜町に、現在の関東天然瓦斯開発
(株) にあたる日本初の天然ガス事業会社「大多喜天然瓦斯 (株)」を設立した際、役員ではなく経営には関与しない顧問としました。将来の展望が不透明な新会社に万一の場合、大河内正敏博士は多くの公職にあり、華族であるため、社会的に及ぼす影響を最小限に抑える配慮があったとされています。
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大多喜城といすみ鉄道 (千葉県夷隅郡大多喜町) |
(画像提供:写真AC) |
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なお、大多喜藩は十万石 (現在の価値で年収30億円※1) の藩であり、藩庁を大多喜城に置き、千葉県夷隅郡を領地としていました。(関東天然瓦斯開発については、前章「"天然ガス"がもたらした茂原市の工業都市化」の「茂原地区の天然ガスと日本初の事業会社」で詳しく解説)
理研コンツェルン、日本の産業発展をけん引した理研発祥の企業群
大河内正敏博士がまだ理研の一研究員であった頃、理研は第1次世界大戦後の不況で財界や産業界から十分な寄付が集まらず、研究所の運営に支障が出ていました。後に100年に1人の英傑と称されることとなる、弱冠42歳の若さで所長に抜擢された大河内正敏博士は、研究体制の一新や研究成果である特許や実用新案の企業化を進め、これを研究費の財源とするなど体制を改革することになります。
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[参考] 理化学研究所 創立20周年記念映画「科学の殿堂」(5:40〜) |
1942年 (昭和17年) 制作の理研紹介映画での大河内正敏所長の登場シーン |
大河内正敏博士が設立に関わった企業は、1937年 (昭和12年) 時点で理化学興業 (株) など直系企業23社 (資本金3,703万5千円・現在の価値で約320億2千万円※2) と、前述の理研真空工業 (株) など傍系企業8社 (資本金2,032万円・現在の価値で175億7千万円※2) となり、後に「理研産業団」と言われる新興財閥「理研コンツェルン」を形成する基盤となりました。
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[参考] 理化学研究所 創立百周年記念映像 (7:09〜) |
2017年 (平成29年) 制作、大河内正敏博士と理研コンツェルンの紹介箇所 |
1940年 (昭和15年) の最盛期には、理研の総収入361万円 (現在の価値で約19億円※2) のうち、約60%に当たる218万円 (現在の価値で11億4千万円※2) が特許実施料となっており、研究費290万円 (現在の価値で15億2千万円※2) の約75%をまかなっていました。
しかし、戦後のGHQ (連合国軍総司令部) による財閥解体により、理研コンツェルンは消滅しましたが、現在も「理研コンツェルン」の流れを汲む企業として、筆頭格の (株) リコー (旧・理研光学工業) をはじめ、(株) リケン (旧・理研ピストンリング)、理研ビタミン (株) (旧・理研栄養薬品) 、リケンテクノス (株) (旧・理研ビニル工業)、理研電線 (株) (旧・理化学研究所内)、理研コランダム (株) (旧・理化学研究所内)、理研計器 (旧・富國機械)、協和キリン (旧・理研酒工場/現・キリンホールディングス子会社) など多数の企業の礎となっています。
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A4 カラープリンター複合機 (リコー) |
わかめスープ (理研ビタミン) |
iMUSE 免疫ケア (協和キリン) |
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(参考画像:楽天市場) |
(※1:「江戸の家計簿」より、米1石は30万円で換算/※2:東京ドーム47,000u・14,217坪で換算)
(※3:日銀企業物価指数を基に換算) |
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次節「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3) [関東天然瓦斯開発]」では、関東天然瓦斯開発茂原鉱業所の歴史について詳しく解説いたします。
(公開日:2024.01.21/更新日:2024.03.28) |
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工業都市"茂原"を形成する主要企業について (3) |
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工業都市"茂原"を形成する主要企業について (1) |
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