前章「外房線の中核をなす茂原駅と交通ネットワークの発達」で解説した通り、現在の外房線の茂原駅は旅客輸送に特化していますが、本章ではかつては首都圏の主要な貨物駅としても機能していた歴史について解説いたします。さらに、ミニコーナー「三井東圧化学専用線での通運を担った、南総通運株式会社」では、茂原駅を含む外房線や東金線の各駅で鉄道貨物輸送を担っていた南総通運 (株) について取り上げます。 また、ミニコーナー「茂原駅が高架駅となった経緯と駅前再開発」では、茂原駅が高架化された経緯についての解説、「よみがえる昭和の茂原駅、立ち食いそば店とキヨスクの記録」では、現在は姿を消した立ち食いそば店「SLそば」と小型売店「キヨスク」について、当時の写真とともに懐かしい風景を紹介しております。
外房線茂原駅 (当時の読み方は"MOBARA"ではなく"MOHARA") は、現在のJR東日本外房線の原点となった、民営鉄道の房総鉄道 (株) 房総線の「茂原停車場」(茂原駅) として、1897年 (明治30年) 4月17日に開業しました。(茂原駅の略史については、付録「JR東日本・外房線茂原駅 略史」をご覧ください)
当時の茂原駅は、開業から1981年 (昭和56年) 11月末まで、旅客と貨物輸送 (旅客貨物車扱営業) を行う一般的な国鉄 (日本国有鉄道) の駅の一つであり、駅には貨物用の側線も存在していました。なお、茂原駅が現在の場所に設置された経緯については、ミニコラム「茂原市郊外に設置された、明治期の茂原駅」で、紹介しております。
明治末期には、茂原市の隣の長生郡長南町 (旧称は庁南町) から茂原駅前 (現在の茂原駅南口) まで、「県営庁南茂原間人車軌道」として人車軌道が敷設されました。(県営庁南茂原間人車軌道については、前章「外房線の中核をなす茂原駅と交通ネットワークの発達」の「明治末期から昭和初期の交通インフラ」で解説)
この県営の庁南茂原間人車軌道を利用して、長南町の特産である「叺 (かます)」や「筵 (むしろ)」などの藁工品 (わらこうひん) が大量に茂原駅の貨物倉庫に運ばれ、出荷されていました。
また、大正時代には、現在の茂原駅東口付近に「長生乾繭市場」(通称・茂原繭市場) が開設され、当時、製糸業が盛んだった中央本線の岡谷駅 (長野県岡谷市) まで鉄道輸送されていました。(茂原繭市場については、前章「茂原市の歴史と成り立ちについて」の「活況を呈した茂原繭市場」で紹介)
1897年 (明治30年) 下期の房総鉄道 (株) 房総線茂原駅の貨物収入は、房総鉄道管内で起点駅の寒川駅 (現在の本千葉駅) に続く、6,010円530銭 (現在の価値で約1億2,000万円※) となっていました。
なお、房総線 (後の房総東線、現在の外房線) の一ノ宮駅 (現在の上総一ノ宮駅) と大網駅で旅客収入が多かった理由として、一ノ宮駅は初代天皇の母親を祭った「上総国一之宮 玉前神社」への最寄駅となっており、参拝客が多かったことと、大網駅も駅周辺は商業地区が形成されており、乗降客が多かったと思われます。(房総鉄道の歴史や玉前神社については、前章「外房線の中核をなす茂原駅と交通ネットワークの発達」の「外房線の原点となった「房総鉄道」の開通」で解説)
現在の大網駅は千葉寄りに移転していますが、当時の房総線の本線は寒川駅から東金駅間であったため、当時の大網駅 (旧大網駅) は東金駅寄りに位置しており、スイッチバックして支線の茂原駅方面へ向かう構造となっており、国鉄時代には蒸気機関車を方向転換するための転車台なども備えた大きな駅でした。(旧大網駅については、後日当サイトで紹介する予定です) 昭和初期の茂原駅 1929年 (昭和4年) の茂原駅付近の鳥瞰図には、蒸気機関車にけん引される下り列車や跨線橋、貨物ホーム、貨物倉庫が確認できます。
1930年 (昭和5年) 2月8日には、ローカル私鉄である南総鉄道の南総鉄道線の茂原駅から笠森寺間が開業しました。南総鉄道は、最終的には市原市にある小湊鉄道の上総牛久駅への接続を予定しており、まずは名所である名刹「笠森寺」(笠森観音) の最寄駅まで開業させました。御開帳時には多くの参拝客を乗せた列車が房総線 (後の房総東線、現在の外房線) から南総鉄道線へ直接乗り入れたこともありました。(南総鉄道については、当サイト内「廃線・廃止になった鉄路」の「南総鉄道」で詳しく開設)
以下の写真は、1936年 (昭和11年) の茂原駅となっています。左の写真には、南総鉄道の気動車が停まっていますが、南総鉄道は鉄道省房総線 (後の国鉄房総東線、現在のJR東日本外房線) の貨物側線と上りホームを共用していました。右の写真では、背景に木々が写っているため、当時は東口 (北口) がなかった下りホームであると考えられます。さらに、女子学生の制服のデザインから、スカートの裾に白線があるのは私立静和女学校 (現在の茂原高校の前身) の生徒であり、白線がないのは茂原女子技芸学院 (茂原総合学園を経て、後の茂原家政専門学校) の生徒であると推測されます。
黎明期の茂原駅での貨物輸送 大正期から昭和初期までの茂原駅では、現在の茂原駅東口付近にあった茂原繭市場から出荷される特産の繭や、長南町から人車軌道で運ばれてくる米や叺 (かます)、筵 (むしろ) などの藁工品などの農作物、生野菜、苗木、漬物、瓦、牛や馬など家畜などの出荷に利用されていました。
また、主に到着していた貨物は、活魚、乾物、バナナ、リンゴなどの果物類、砂糖、麺類、酒、清涼飲料水、砂、セメントなどの建築資材など、さまざまなものが様々な種類の貨車に積載され、運ばれていました。
房総東線茂原駅の貨物取扱量は、国有化以降の1935年 (昭和10年) 度では千葉県内で4位となっており、房総東線 (現在の外房線) 管内では1位となっていたことから、長生地域 (茂原市と長生郡の一宮町・睦沢町・長生村・白子町・長柄町・長南町) の貨物の拠点駅となっていることが分かります。
なお、千葉県内の主な発送品は銚子漁港 (銚子市) や大原漁港 (いすみ市)、片貝漁港 (山武郡九十九里町) で採れる水産物をはじめ、内陸部で栽培される農作物、香取地域 (香取市と香取郡の神崎町・多古町・東庄町) の佐原繭市場や長生地域の茂原繭市場で取引されていた繭などと推察されます。
1960・70年代 (昭和35〜54年) の茂原駅がまだ地上駅であった頃、外房線は「房総東線」と呼ばれていた時代でした。この時期、房総東線はまだ複線化されておらず、単線で運行されていました。前述の通り、当時の茂原駅は長生地域の貨物輸送の拠点となっており、構内には房総東線・東金線で唯一と言っていい本格的な荷役設備 (後述) を備えた貨物施設が設置されていました。
さらに、側線には「専用線」と呼ばれる3つの会社の鉄道引込線が接続しており、地方の亜幹線の中間駅にしては異例な規模の広さを誇っていました。1970年 (昭和45年) 時点で、茂原駅の駅職員は実務方が8人、現場担当者が33名で合計41名が在籍していました。
1973年 (昭和48年) 時点で、茂原駅の本線は1,430m、側線は1,870mとなっており線路総延長は3,300mに達しており、駅構内の面積は23,578u (東京ドーム約0.5個分、サッカーコート約3.3面分※1) となっていました。
貨物用ホームもあった、国鉄茂原駅の本格的な貨物施設 現在、駅前再開発ビル「南総サンヴェルプラザ」(旧・茂原そごう) が建っている場所には、かつて茂原駅の貨物施設が存在しました。この施設には荷役設備が設置されており、フォークリフトなどの荷役機械が用意され、鉄道輸送に必要な荷役線、貨物ホーム、上屋などの荷さばき施設が整備されていました。
この貨物施設では、荷役機械以外の利用については無償で提供され、駅前にあった「南総通運 (株) 茂原支店」が鉄道貨物の取り扱い業務を担当していました。(南総通運については、ミニコーナー「三井東圧化学専用線での通運を担った、南総通運株式会社」で解説) 貨物施設には、貨車の入れ替え用の引上線が設けられており、この引上線は約390メートルの長さで、貨物施設から新茂原方向に伸びていました。また、駅北側にある菅原病院の裏手には、最長で約240メートルの留置線が3本設置されており、ここで国鉄 (日本国有鉄道) から「三井東圧化学専用線」(東洋高圧工業専用線) へ貨車の引き渡しが行われていました。(三井東圧化学専用線については、前章「三井東圧化学専用線で行われた、鉄道貨物輸送の歴史」と後章「三井東圧化学専用線 (茂原駅〜三井東圧化学千葉工業所間) [旧ルート]」で詳しく解説)
さらに、現在の茂原駅東口にある町保シティビル付近から山之内病院方向に「野口産業専用線」が接続しており、貨物施設から約310メートル先で「関東天然瓦斯開発専用線」が接続していました。(野口産業専用線、関東天然瓦斯開発専用線については次章「専用線所管駅「茂原駅」と三井東圧化学専用線について」の「専用線所在駅としての茂原駅について」で解説)
1957年 (昭和32年) 10月5日に東洋高圧工業専用線 (三井東圧化学専用線) が竣工すると、東洋高圧工業 (株) 千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) の建設資材や工場で製造した化学肥料や化学薬品が専用線を通じて搬入・出荷され、専用線所管駅である茂原駅の貨物取扱量が急増していきました。(同社については、前章「三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) の黎明期から縮小期まで (1)」で詳しく解説)
首都圏屈指の貨物駅でもあった茂原駅 茂原駅の貨物取扱量 (発着トン数) は、1935年 (昭和10年) では「9,013トン」でしたが、専用線供用後の1961年 (昭和36年) には前述の東洋高圧工業 (後の三井東圧化学) の貨物だけでも「18万9,237トン」と約20倍に急増しており、1965年 (昭和40年) には首都圏の主要な専用線拠点駅のひとつとなっていました。
昭和30年代から40年代 (1955年から1974年) にかけて、茂原市は工業都市化が進み、市内に多くの事業所が進出し、それらの従業員や京葉方面への通勤者も増加し、茂原駅の乗車人数も急増していた時期でした。(詳細については、前章「茂原市の人口増加のきっかけとなった、日立製作所と三井東圧化学」で詳しく解説)
茂原駅の貨物設備増強と乗降客の安全性確保 この時代、日本は高度経済成長期に突入し、国鉄 (日本国有鉄道) は慢性的な輸送力不足を解消するため、数年にわたり大規模な投資を行い、老朽化した設備の更新や増線などを進めました。茂原駅でも、国鉄は総額1兆3,491億円 (現在の価値で約3兆3,000億円※1) となった「新5カ年計画」に基づき、急増する貨物取り扱い量に対応するため、駅構内の貨物用側線の強化工事などを実施し、輸送能力の増強が行われました。(当時の国鉄の施策については、ミニコーナー「昭和から令和への鉄道輸送、モーダルシフトと物流の主役への再興」で詳しく解説)
また、当時の総理府統計局 (現・総務省統計局) によると、1965年 (昭和40年) 時点で茂原市の常住人口100人あたりの昼間人口の比率が非常に高く、東京23区を上回る全国で3位となっていました。茂原駅の乗車人員も、東洋高圧工業専用線 (三井東圧化学専用線) の供用開始前だった1956年 (昭和31年) には1日平均5,853人でしたが、専用線による鉄道輸送が最盛期となった1967年 (昭和42年) には1万1,599人と約10年で2倍近く増加していました。この人数は当時の茂原市の人口が4万5,830人であったことを考えると、実に約4分の1の市民が毎日茂原駅を利用していたことになり、朝晩の通勤時間帯は大混雑していたと思われます。(人口増加の要因については、前章「茂原市の人口増加のきっかけとなった、日立製作所と三井東圧化学」を参照)
急増する貨物や乗車人員に伴う駅の安全面について、駅北口 (現在の東口) から構内踏切を渡ってホームに向かう乗降客の安全が懸念され、また、この線路横断による貨車の入れ替え作業の遅滞が旅客列車の遅延を引き起こす可能性がありました
そのため、国鉄はこの構内踏切を廃止し、茂原市も予算を計上して、従来の八積方にある跨線橋を駅北口まで延長し、新たに1番線ホームと2番・3番ホームに架かる跨線橋を新茂原方に設置しました。
跨線橋の増設により駅構内の安全性は確保されましたが、駅周辺では「開かずの踏切」問題が社会問題化していきました。茂原駅と三井東圧化学専用線の留置線の間で貨車の入れ替え作業が行われると、茂原駅構内にある東郷街道踏切が30分近く閉鎖されたままになっていました。
さらに、1972年 (昭和47年) 7月に外房線が電化された際には特急「わかしお」(東京駅〜安房鴨川駅間) の運行が始まり、茂原駅から東京方面への直通列車や運行本数が増加したことで、市内の各踏切での交通渋滞が慢性化していました。この状況を改善するために市内の8か所の踏切を撤去することとなり、新茂原駅から八積間が高架化され、茂原駅も高架駅となることが決定されました。(詳細については、ミニコーナー「茂原駅が高架駅となった経緯と駅前再開発」で詳しく解説) かつて「裏駅」と呼ばれた茂原駅東口 茂原駅北口は当時、東洋高圧工業専用線 (後に三井東圧化学専用線と改称) と接続していた貨物側線に面しており、地元では「裏駅」と呼ばれており、駅前広場は未舗装であったと思われます。(当時、裏駅には「好音堂」というレコード店があり、幼少の頃に父に連れられて4チャンネルステレオ機器で使うレコード針を買いに行き、雨で靴がひどく汚れてしまった記憶があります)
現在、かつて「裏駅」と呼ばれていた茂原駅北口は、茂原駅が高架化された際に「茂原駅東口」と改称されています。また、南口と同様に駅前広場にはバスバースとタクシープールが整備され、南口発着の一部のバス系統が移されています。
なお、懐かしい地上駅時代の茂原駅南口周辺や駅構内の様子 (動画) は、shinyaman様のX(旧Twitter)で公開されていますので、ぜひご覧ください。
次章「専用線所管駅「茂原駅」と三井東圧化学専用線について」では、茂原駅が貨物駅として全盛期を迎え、3つの専用線が側線に接続された際の重要な役割に焦点を当てます。茂原駅は三井東圧化学専用線 (東洋東圧工業専用線) の最初の専用線所管駅であり、関東天然瓦斯開発専用線や野口産業専用線も側線に接続されていました。この時期に各専用線で運ばれた貨物の種類や南総通運が担った通運事業、また、貨物の入れ替え作業に関わった蒸気機関車やスイッチャー (貨物移動機) についても解説いたします。 さらに、ミニコーナー「昭和から令和への鉄道輸送、モーダルシフトと物流の主役への再興」として、かつて物流の主役であった鉄道輸送が衰退した理由や、現在は地球温暖化への懸念や物流の「2024年問題」により、再び鉄道輸送が見直されつつある状況、そして鉄道輸送の未来に対する展望について取り上げました。
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