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廃線・廃止になった鉄路
工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて (22)
三井東圧化学専用線 (茂原駅〜三井東圧化学千葉工業所間) [旧ルート]

1957年 (昭和32年) から1981年 (昭和56年) まで存在した、外房線茂原駅発着の三井東圧化学専用線の旧線ルートを、1970年代から80年代前半に撮影された写真を元に紹介いたします。また、この章の後半では、専用線がなぜ遠回りに敷設されたのかについて考察してみました。(三井東圧化学専用線については、前章「三井東圧化学専用線で行われた、鉄道貨物輸送の歴史」で紹介)

1966年 (昭和41年) 東洋高圧工業専用線 (三井東圧化学専用線)
(参考:都市計画街路網図「茂原市街図」加筆)

1966年 (昭和41年) に三井東圧化学専用線が現役で使用されていた当時、外房線は「房総東線」と呼ばれ、非電化の単線路線でした。また、「三井東圧化学専用線」の当時の名称は、商号変更前は「東洋高圧工業専用線」と呼ばれていました。旧ルート廃止後、専用線の一部の路盤は茂原駅の高架化工事中に外房線の仮線として使用されていました。

現在、この仮線跡は茂原市によって舗装され、1987年 (昭和62年) 6月に全長2.7kmの遊歩道として完成しました。現在の状況はGoogleマップのストリートビューでご覧いただけます。(右下の各出典を参照) なお、撮影影場所が特定できない一部については筆者の推測によるものであり、白黒写真にはAIによる着色を施しています。

※今回使用した航空写真は1975年 (昭和50年) 1月のものです。また、パソコン上でのみ、航空写真上でマウスポインタを移動させると、2016年 (平成28年) 11月の航空写真に切り替わり、廃止から36年後の様子を交互に比較することができます。

1975年 (昭和50年) 1月 2016年 (平成28) 11月
国土地理院「茂原」(昭50) 加筆 国土地理院「茂原」(平28)

1975年 (昭和50年) と2016年 (平成28年) の相違点
2016年 (平成28年) 現在、外房線 (房総東線) の東郷街道踏切、茂原踏切、下多田踏切、姥田踏切、径塚踏切は高架化に伴い廃止されました。左側に見える国道128号線は、現在、茂原市役所沿いに新たに国道128号バイパスが整備されたため、旧道となっています。また、富士見中学校は西に移転し、跡地は「茂原市民体育館」となっています。

1975年 (昭和50年) 三井東圧化学専用線
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると、2016年 (平成28年) 11月の画像に切り替わります]
国土地理院「茂原」(昭50/平28) 加筆

茂原駅周辺及び、外房線並走区間

日立製作所町保工場跡地は、現在は「茂原市総合市民センター」となり、外房線の茂原駅南口付近にあった南総通運茂原支社と南総タクシー茂原営業所の跡地は、駅前再開発ビル「サンヴェル」となり、キーテナントだった茂原そごう閉店後は南総通運が運営する「茂原サンヴェルプラザ」として営業しています。なお、1975年 (昭和50年) 頃の茂原駅の様子については、前章「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」で紹介しています。

1975年 (昭和50年) 1月 三井東圧化学専用線
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると、2016年 (平成28年) 11月の画像に切り替わります]
国土地理院「茂原」(昭50/平28) 加筆
1975年 (昭和50年) 1月 三井東圧化学専用線
国土地理院「茂原」(昭50/平28) 加筆
@外房線・三井東圧化学専用線「東郷街道踏切」 [第1種手動踏切 (有人踏切)]
下り2番へ153系急行「外房」が入線 ※1 踏切を通過する113系上り普通電車 ※1
左から貨物側線、上り1番、下り2番、3番、専用線側線 左から専用線側線、3番、下り2番、上り1番、貨物側線
A外房線・三井東圧化学専用線「東郷街道踏切」 [第1種手動踏切 (有人踏切)]
1963、64年 (昭和38年) 頃の踏切 ※2 1980年代 (昭和50年代) ※1
奥に見える煙突と和風建築の建物は、銭湯「富の湯」(現在は廃業)、跡地はコインパーキング (Googleマップ)
【現在】 高架後の東郷踏切跡
(筆者撮影)
B茂原駅「貨物留置線」
左から留置線1 (元南総鉄道) 〜 3番線 ※1 【現在】上りホームあった場所は「アルカード茂原」に
留置線は「サンヴェル」(旧そごう) になってる
(画像出典:Googleマップ)
C三井東圧化学専用線「貨物留置線」
国鉄から三井東圧化学へ貨車の受渡しを行います※1 【現在】跡地はJR東日本の千葉信号通信技術センター (茂原メンテナンスセンター) の駐車場になっている
(画像出典:Googleマップ)
D茂原駅「引上線終端部」
千葉行き、113系上り普通電車 ※1
作永産婦人科付近か、留置線に車掌車とタンク車
【現在】引上線跡は舗装され、緑の古レールの柵が作永産婦人科の裏手で終わっている事から終端部跡と推定
(画像出典:Googleマップ)
E外房線・三井東圧化学専用線「茂原武道館付近」
外房線を行く、183系房総特急「わかしお」 ※1 【現在】下多田踏切跡、旧ルート廃止後は遊歩道に
下多田踏切辺り、手前が三井東圧化学専用線 (画像出典:Googleマップ)
F外房線・三井東圧化学専用線「ビジネスあすか旅館付近」
専用線を茂原駅に向かう、貨物列車 【現在】外房線旧線は、橋脚の間にある駐車場に
下多田踏切辺り、手前が外房線 (画像出典:Googleマップ)

外房線離合付近から、三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場)

2016年 (平成28年) 現在、茂原農業高校は茂原工業高校と統合され、「茂原樟陽高校」となりました。三井製薬工業千葉工場は、2001年 (平成13年) に日本シエーリングに譲渡され、2005年 (平成17年) から「沢井製薬関東工場」になっています。

1975年 (昭和50年) 三井東圧化学専用線
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると、2016年 (平成28年) 11月の画像に切り替わります]
国土地理院「茂原」(昭50)(平28) 加筆
1975年 (昭和50年) 1月 三井東圧化学専用線
国土地理院「茂原」(昭50) 加筆
F外房線と三井東圧化学専用線との離合付近
新茂原方を見る、外房線 (左) と分岐付近 ※1 茂原方を見る、外房線を行く153系急行「外房」 ※1
G三井東圧化学専用線「第四種踏切」(警報機・遮断器無) 付近
茂原駅から三井東圧化学へ向かう、 【現在】旧ルート廃止後は遊歩道になっている
MTD451牽引の貨物列車※1 (画像出典:Googleマップ)
奥には天津祖台踏切が見える ※1 【現在】畑はマンション (ダイアパレス茂原) に
(画像出典:Googleマップ)
H三井東圧化学専用線「第四種踏切」萩原交通公園付近
阿久川橋梁 (奥) を渡り、茂原駅に向かう
MTD451牽引の貨物列車
※1
【現在】 阿久川橋は鉄道橋から
人道橋に転換されている
※1
(画像出典:Googleマップ)
I三井東圧化学専用線「阿久川橋」
奥は、三井東圧化学千葉工業所 ※1 【現在】阿久川橋 (茂原分工場側より)
(現在は、三井化学茂原分工場に改称されている) (画像出典:Googleマップ)
J萩原交通公園 (1973年設置)
専用線跡と隣接している萩原交通公園 (Googleマップ) 公園内にある腕木式信号機と国鉄8620形蒸気機関車
(2000.11 筆者撮影) (2000.11 筆者撮影)
元佐倉機関区所属 58680/580号機 サイドビュー
(2000.11 筆者撮影) (2000.11 筆者撮影)
(※1:写真提供 スピードスター様<一部AIカラー化>/※2:画像出典「ふるさとの想い出写真集茂原」出版社許諾済)

東洋高圧工業専用線 (三井東圧化学専用線) が遠回りして敷設された背景
1965年 (昭和40年) 6月 茂原飛行場跡地
[パソコンのみ:マウスポインタで画像に触れると表記無し画像に切り替わります]
国土地理院「茂原」(昭40) 加筆
(注記1: 茂工/茂原工業高校、茂農/茂原農業高校、長高/長生高校、茂女子/茂原高校、茂中/茂原中学校、富士見中/富士見中学校、萩小/萩原小学校、茂小/茂原小学校、西小/茂原西小学校、関天/関東天然瓦斯開発、東芝/東芝コンポーネンツ、R128/国道128号線、r84/県道84号茂原長生線、r138/県道138号正気茂原線、r293/県道293号茂原環状線)
(注記2: 茂農と茂工は統合し茂原樟陽高校に茂高は跡地、富士見中は西部移転し市民体育会館に、社宅・社宅エリアは住宅地・ショッピングモールに旧日立跡地は総合市民センターに、東芝は跡地、R128の一部は旧道になり市役所・茂原高校側にR128バイパスが出来る 2023年現在)


本来なら最短で三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) と結べる茂原海軍航空基地専用線跡地を活用すれば、建設費を抑えることができたと考えられますが、前述の通り戦後になると「茂原海軍航空基地専用線」跡地には既に商店 (写真の緑線) が建ち並んでいました。赤線は旧道であり、青線は昭和末期に区画整理で拡幅された新しい道路です。

1951年頃 (昭和26年) 頃の茂原駅東口の商店街 現在は道路は拡幅されサンシティ町保通りに
<AI Colorized> (画像出典:「茂原市中央の発達史」加筆) (出典:Googleマップ)
左は御須食堂と中村菓子店、左は河野青果店だと思われる

かつて航空隊本部や兵舎があった茂原海軍航空基地 (通称・海軍茂原飛行場) は、戦後に茂原中学校や萩原小学校、野巻戸から移転した茂原農業高校などが設立され、文教地区として発展しました。この地域では騒音問題などが懸念されるため、それを回避するために遠回りの経路が選択された可能性が考えられます。

なお、戦後の海軍茂原飛行場跡地の様子や茂原海軍航空基地専用線については、前章「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」の「茂原市の熱意実る、東洋高圧工業千葉工業所 (茂原工場) の誘致」や、当サイト内「旧茂原飛行場と軍用引込線」で紹介しています。



次章「三井東圧化学専用線所管駅「新茂原貨物駅」(新茂原駅貨物施設) の歩み」では、通称「新茂原貨物駅」として知られる「新茂原駅貨物施設」に焦点を当てます。茂原駅の高架化に伴い、貨物駅の機能を移管するために新たに設けられましたが、ほとんどの貨物取扱いは三井東圧化学専用線に依存しており、その貨物量が激減したことが課題となり、僅か10年ほどで新茂原貨物駅は廃止されました。開業から終焉までの経緯について詳しく解説いたします。

(公開日:2024.01.21/更新日:2024.04.09)

三井東圧化学専用線所管駅「新茂原貨物駅」(新茂原駅貨物施設) の歩み 
専用線所管駅「茂原駅」と三井東圧化学専用線について

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