1957年 (昭和32年) から1981年 (昭和56年) まで存在した、外房線の茂原駅発着の三井東圧化学専用線の旧線ルートを、1970年代から80年代前半に撮影された写真を元に紹介いたします。また、この章の後半では、専用線がなぜ遠回りに敷設されたのかについて考察してみました。(三井東圧化学専用線については、前章「三井東圧化学専用線で行われた、鉄道貨物輸送の歴史」で紹介)
1966年 (昭和41年) に三井東圧化学専用線が現役で使用されていた当時、外房線は「房総東線」と呼ばれ、非電化の単線路線でした。また、「三井東圧化学専用線」の当時の名称は、商号変更前は「東洋高圧工業専用線」と呼ばれていました。旧ルート廃止後、専用線の一部の路盤は茂原駅の高架化工事中に外房線の仮線として使用されていました。 現在、この仮線跡は茂原市によって舗装され、1987年 (昭和62年) 6月に全長2.7kmの遊歩道として完成しました。現在の状況はGoogleマップのストリートビューでご覧いただけます。(右下の各出典を参照) なお、撮影影場所が特定できない一部については筆者の推測によるものであり、白黒写真にはAIによる着色を施しています。 ※今回使用した航空写真は1975年 (昭和50年) 1月のものです。また、パソコン上でのみ、航空写真上でマウスポインタを移動させると、2016年 (平成28年) 11月の航空写真に切り替わり、廃止から36年後の様子を交互に比較することができます。
茂原駅周辺及び、外房線並走区間 日立製作所町保工場跡地は、現在は「茂原市総合市民センター」となり、外房線の茂原駅南口付近にあった南総通運茂原支社と南総タクシー茂原営業所の跡地は、駅前再開発ビル「サンヴェル」となり、キーテナントだった茂原そごう閉店後は南総通運が運営する「茂原サンヴェルプラザ」として営業しています。なお、1975年 (昭和50年) 頃の茂原駅の様子については、前章「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」で紹介しています。
外房線離合付近から、三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) 2016年 (平成28年) 現在、茂原農業高校は茂原工業高校と統合され、「茂原樟陽高校」となりました。三井製薬工業千葉工場は、2001年 (平成13年) に日本シエーリングに譲渡され、2005年 (平成17年) から「沢井製薬関東工場」になっています。
(注記2: 茂農と茂工は統合し茂原樟陽高校に茂高は跡地、富士見中は西部移転し市民体育会館に、社宅・社宅エリアは住宅地・ショッピングモールに旧日立跡地は総合市民センターに、東芝は跡地、R128の一部は旧道になり市役所・茂原高校側にR128バイパスが出来る 2023年現在) 本来なら最短で三井東圧化学千葉工業所 (現在の三井化学茂原分工場) と結べる茂原海軍航空基地専用線跡地を活用すれば、建設費を抑えることができたと考えられますが、前述の通り戦後になると「茂原海軍航空基地専用線」跡地には既に商店 (写真の緑線) が建ち並んでいました。赤線は旧道であり、青線は昭和末期に区画整理で拡幅された新しい道路です。
かつて航空隊本部や兵舎があった茂原海軍航空基地 (通称・海軍茂原飛行場) は、戦後に茂原中学校や萩原小学校、野巻戸から移転した茂原農業高校などが設立され、文教地区として発展しました。この地域では騒音問題などが懸念されるため、それを回避するために遠回りの経路が選択された可能性が考えられます。 なお、戦後の海軍茂原飛行場跡地の様子や茂原海軍航空基地専用線については、前章「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」の「茂原市の熱意実る、東洋高圧工業千葉工業所 (茂原工場) の誘致」や、当サイト内「旧茂原飛行場と軍用引込線」で紹介しています。
次章「三井東圧化学専用線所管駅「新茂原貨物駅」(新茂原駅貨物施設) の歩み」では、通称「新茂原貨物駅」として知られる「新茂原駅貨物施設」に焦点を当てます。茂原駅の高架化に伴い、貨物駅の機能を移管するために新たに設けられましたが、ほとんどの貨物取扱いは三井東圧化学専用線に依存しており、その貨物量が激減したことが課題となり、僅か10年ほどで新茂原貨物駅は廃止されました。開業から終焉までの経緯について詳しく解説いたします。
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