三井東圧化学専用線の管轄駅であった茂原駅が高架化され、本納駅から新茂原駅までの区間に「新茂原貨物駅」(正式名称: 新茂原駅貨物施設) が新設されました。この節では、紹介する新ルートとなる2.4kmの新茂原貨物駅への専用線付け替え工事は、国鉄 (日本国有鉄道)、三井東圧化学 (株)、そして茂原市の3者で合意のもとに実施されました。(新茂原貨物駅については、前章「三井東圧化学専用線所管駅「新茂原貨物駅」(新茂原駅貨物施設) の歩み」で詳しく解説)
三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) から腰当踏切までは茂原市が用地取得しました。腰当踏切から外房線と並行している区間と新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設) 構内の仕訳線 (3線) の敷設費用は三井東圧化学が負担し、1980年 (昭和55年) に国鉄によって敷設工事が実施されました。
幹線道路である国道128号線から新茂原貨物駅へのトラックの進入路が存在しなかったため、茂原市が現在の谷島踏切がある市道の拡幅工事を実施しました。1981年 (昭和56年) 12月1日から貨物の取扱いが開始されました。駅開業当初は、外房線は新茂原〜八積間が高架化し、本納〜新茂原間が複線化工事中でした
貨物列車が西谷踏切に近づくと、機関車が踏切手前で一旦停車し、係員が降車して信号機のボタンを押し、信号を「赤」に切り替えてから、貨物列車が西谷踏切を通過する光景を記憶しています。
なお、西谷踏切のある市道は、朝晩は新茂原駅までの通勤・通学で多少の交通量があり、昼間は閑散としていました。当時の新茂原駅では、総武線経由や京葉線経由の東京行き快速列車が通過していたため、1日平均乗車人員は茂原駅の1/10程度でした。私が目撃していた晩年は数両の貨車を牽引した専用線の貨物列車が1日1往復程度だったので特に踏切での交通渋滞など車や人の往来に支障をきたすことが無かったと記憶しています。(現在は、京葉線経由の快速が停車します)
テールアルメ工法は、1963年 (昭和38年) にフランスで発明され、フランス語で「テール (Terre)」は「土」、「アルメ (Armee)」は「補強」を意味し、「補強土」と訳されます。盛土に帯鋼の補強材 (ストリップ) を組み込み、盛土表面をユニット化されたコンクリート製の壁面パネル (コンクリートスキン) で覆い、強固な擁壁を形成します。 日本では1972年 (昭和47年) の中央自動車道建設で初めてテールアルメ工法が導入され、翌年の1973年 (昭和48年) には国鉄でも採用されました。現在では、世界中で最も実績のある工法の一つとして高く評価されています。また、三井東圧化学専用線の建設においても、当時の最新土木技術として採用され、1979年 (昭和54年) 12月に着工し、翌1980年 (昭和55年) に竣工し、12月2日には三井東圧化学千葉工業所 (茂原工場) で開通修祓式が行われました。 テールアルメ工法で施工された区間について
三井東圧化学専用線のテールアルメ工法の施工区間は2つあり、県道293号線の栄橋付近から西谷踏切までの区間 (総延長510m、高さ2.32m〜5.23m) では、廣瀬鋼材産業 (株) (現・ヒロセ) 方式を、西谷橋から三井製薬工業 (株) 千葉工場までの区間 (総延長616m、高さ2.32m〜3.73m) では川鉄商事 (株) (現・JFE商事鉄鋼建材) 方式を採用しています。
西谷踏切〜三井東圧化学間でのテールアルメ工法の施工手順について 当時の三井東圧化学専用線の工事中の写真を基にテールアルメ工法の施工手順に簡単に解説いたします。現地での地質調査や測量後、工事の仕様を検討し、盛土材料として長生郡長南町小野田地区の山砂を選定しました。工事用車両の搬入路確保のため、河川事務所と協議の上、幅の狭い阿久川堤防に腹付け盛土を施し、通路を拡幅しました。
その後、ショベルカーを用いて不要な土砂を除去し、基礎コンクリートを打設し、コンクリートスキン (以下、スキン) の組立を行いました。同時に、スキン同士の隙間から盛土材料が流出しないように、背面の目地と目地の間に透水防砂材を設置しました。
従来地盤まで擁壁側の水田への排水性を確保するため、砕石を敷設し、スキンに対して直角に帯鋼の補強材 (ストリップ) を配置してボルトでスキンに取り付けた後、砕石と上層盛土の間に透水シートを敷設して砕石の目詰まりを防ぎました。
その後、ブルドーザーで盛土材料を敷き広げ、ロードローラーで締固めを行い、その後にストリップの取り付けを所定の高さまで繰り返し行いながら、スキンの組立と透水防砂材の設置を並行して行いました。最後にコンクリートスキン上部に笠コンクリートを設置し、工事は完成しました。
工事中の写真には、三井製薬工業 (株) の生物化学研究所や茂原工業高校の校舎、グラウンドのバックネット、茂原農業高校の演習農場内の排水用のポンプ小屋らしき建物などが写っています。これにより、三井製薬工業敷地から西谷踏切までの区間のものであると思われます。
なお、西谷橋から三井製薬工業までの区間には、阿久川堤防の従来地盤である土塁と茂原工業高校の校舎が接していた箇所がありました。このため、テールアルメ工法での擁壁を造成することができず、通路を確保する必要が生じました。結果的に、擁壁は線路側に寄せられ、跳ね出し式 (張り出し) の擁壁となりました。
訪問した2000年 (平成12年) 11月24日は、この阿久川遊歩道の造成工事していました。その後、沢井製薬 (旧・三井製薬工業) の工場の拡張に伴い、隣接していた茂原農業高校 (現・茂原樟陽高校) の演習農場及び旧茂原工業高校 (現・茂原樟陽高校) のグランドの一部は同社の敷地となり、三井化学〜西谷踏切間の一部の廃線跡は消滅しています。(詳細は、前章「工業都市"茂原"を形成する主要企業について (1) [三井東圧化学]」の「三井製薬工業 (株) 千葉工場 (現・沢井製薬 関東工場)」で解説)
この遊歩道完成により、前章「三井東圧化学専用線 (茂原駅〜三井東圧化学千葉工業所間) [旧ルート]」で紹介した旧線ルートを繋がり、かつて三井東圧化学専用線の所管駅だった茂原駅から阿久川橋までの遊歩道となった旧線ルートと新線ルートの阿久川橋から新川代踏切跡まで1本の遊歩道となり、新川代踏切跡から腰当踏切跡の区間は腰当跨線橋の地下道 (Googleマップ) を通れば、新茂原貨物駅まで徒歩や自転車で移動できます。なお、今回紹介する廃線後の写真は、出典表記の無いものは2000年 (平成12年) 11月24日に公道より撮影したものとなっています。
現在、新茂原貨物駅 (新茂原駅貨物施設) と国道128号線の間の田畑は商業地となり、現在ショッピングセンター「ベイシア」、 カー用品「オートアールズ」、ホームセンター「カインズ」などのベイシアグループの店舗や総合リサイクルショップ「WonderREX」、家具・インテリア「ニトリ」など大型店が多数出店しており、様相が変わっています。
なお、前面展望の画像は、DVD作品「Hi-Vision 列車通り「外房線」特急わかしお」(撮影日: 2005年10月) 及び、「京葉線回り外房線特急 E257系特急わかしお」(撮影日: 2005年2月) からのスクリーンショットを引用しています。
新茂原貨物駅内の三井東圧化学専用線の起点から約380m地点に位置していた「谷島踏切」は、アスファルトで埋められていました。なお、私が2000年 (平成12年) 11月に訪れた後、本納方に金網 (Googleマップ) が設置されています。
新茂原貨物駅内の三井東圧化学専用線の起点から688m地点に位置していた「腰当踏切」は、1983年 (昭和58年)10月当時、腰当跨線橋及び地下横断歩道の工事が行われており、踏切は本納方に移設されたようです。その後、外房線が単線から現在の複線化されたため、踏切の痕跡は確認できませんでした。(Googleマップ)
次節「現役時代と廃線後の三井東圧化学専用線 (新線ルート) (2)」では、腰当踏切から西谷当踏切までの区間と、西谷踏切 (踏切信号機) から三井東圧化学千葉工業所 (現・三井化学茂原分工場) までの残りの区間について紹介いたします。
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