廃線になった鉄路2 〜なぜ、そこに線路は敷かれたのか?

南総鉄道

1.人車・南総鉄道の歴史
房総鉄道株式会社(その後国鉄に吸収)による1987年(M30)4月17日に茂原駅が開設されると
東京方面への交通路が開けてきたので、長南町の産物(むしろ)を千葉、東京方面に輸送するため
に茂原−庁南町長南間(現長南町)に人車軌道が開通しました。


            
          茂原市内を行き交う人車         茂原駅を出た最初の停留所、通町松屋手前
                                                  両写真とも「人が汽車を押した頃」より(佐藤信之氏の許可を得て掲載)

人車軌道とは貨物用のトロッコや客車を人間2名(押し夫)で押して運行した鉄道です。
しかし、大正になると貨物自動車で直接千葉方面に輸送できるなったので、効率の悪い人車は
衰退してしまいました。

しかし、全国に拡がった私鉄建設ブームに乗って、近郊でも九十九里鉄道、小湊鉄道が作られ、
かつての 人車軌道の失敗を取り返すかのように南総鉄道が作られました。建設費不足で千葉鉄道
連隊による突貫工事でようやく開通にこぎつけました。

               
              笠森寺駅の工事                    深沢第二トンネルの工事 
                                         
両写真とも「鉄道ピクトリアル141号」より(白土貞夫氏所蔵
        
       高師付近の工事様子(左の線路は外房線)
     
 写真集・明治・大正・昭和 茂原 ふるさとの想い出」より

しかし、経営難によりわずか9年で鉄道部門が廃止、残ったバス部門も笠森自動車として存続しま
したが、やがて袖ヶ浦自動車(現小湊バス)に買収されてしまいました。

2..南総鉄道株式会社について
・茂原駅〜長南町〜鶴舞町間に鉄道免許をとり、
 1926年(T15年)年に、資本金43万円余、
 社長糸井玄,本社を藻原寺(のち水上村笠森寺下)と
 する南総鉄道株式会社が設立されました。

 後に笠森寺付近に移転。南総鉄道は、小湊鉄道の
 上総鶴舞駅の接続を目指しました。なお、免許取得
 時には上総牛久駅に変更されています。

 写真は、設立当時の本社です。

     出典:「写真集・明治・大正・昭和 茂原 ふるさとの想い出
                    出版社、撮影者の許可を得て転載

3.保有車輌について
   ・蒸気機関車
南総1号 1両
 (元鉄道省120形121号機/
                ロバート・スチブンソン製)
 日本で最初に鉄道が開通した、新橋−横浜間に
 増備機として使用され、その後、同社に売却。
 現存すれば文化財級だが、消息不明。
 笠森寺御開帳の際、房総東線(外房線)からの
 直通列車(オハ22000系)を牽引し活躍 。

 【参考写真】
  当時使われた機関車と同型で加悦鉄道で活躍
  した123号機です。現在、加悦SL広場に静態
  保存されています。
          写真提供:「加悦町役場企画情報観光課」様
←写真をクリックすると、拡大表示されます。
   ・気動車
キハ101号、102号 計2両 
(キハ101形半鋼鉄製ガソリンカー 
              昭和5年・雨宮製作所製)
キハ103号 1両
(キハ103形半鋼鉄製ガソリンカー 
               昭和7年・日本車輌製)

見た目から乗客から「重箱」と呼ばれたいた。
写真は、金谷川を渡る102号機
       
                 出典:「南総鉄道沿線名勝絵葉書」より
                 茂原郷土資料館所蔵/許可を得て転載
    ・貨車
※現在、模型作成中 ワ1号 有ガイ貨車 1両
 (旧鉄道省旧ワ1216)



※現在、模型作成中 ト1号 無ガイ貨車 1両
 (旧鉄道省旧ト11009)



4.運行・停車場について
1935年(昭和10年)12月の時刻表では駅は、全部で16箇所、茂原−奥野間で11往復、
笠森寺-奥野間で2往復あり、全線33分かかり、運賃は31銭でした。

[停車場一覧]
 茂原−高師−本茂原−昌平町−藻原寺−上茂原−須田−米満−豊栄−千田−長南−
 蔵持−深沢−笠森寺−奥野
茂原駅
 右の線路が房総線(外房線)、左が南総鉄道。
 右側のホームが現在の東口方向になります。
 奥が千葉方面となります。

 また、南総鉄道の線路が房総線に沿って延びて
 いるのも分かります。

 南総鉄道廃止後は、レール、ホームはしばらく
 貨車の保留線として残りました。

 出典:「写真集・明治・大正・昭和 ちょうせい ふるさとの想い出
                 出版社、撮影者の許可を得て転載


 藻原寺駅を出る、気動車。
 ここで、車両の整備が行われていたようです。

                 出典:「南総鉄道沿線名勝絵葉書」より
                 茂原郷土資料館所蔵/許可を得て転載



金谷橋を渡る気動車。

                 出典:「南総鉄道沿線名勝絵葉書」より
                 茂原郷土資料館所蔵/許可を得て転載


笠森寺駅
 ここには、南総鉄道本社と車庫がありました。
 また、売店がありキャラメル(10粒5銭、20粒10銭)
 名物柿ようかん、ラムネ、煎餅、おもちゃの刀などが
 売っていたそうです。

  出典:「写真集・明治・大正・昭和 ちょうせい ふるさとの想い出
                     出版社、撮影者の許可を得て転載


5.観光地だった!?笠森寺駅界隈
  南総鉄道本社
   建物は2階建で、1階は事務所、2階は催事場でした。
   正月には書初めの展示、芝居、映画なども上映していたようです。
   また、社屋は地元の高校から譲り受けたものだそうです。

  飲食店、旅館など
   飲食店は、「楠美」、「大正館」、「安藤」、「えびすや」、またカフェもありました(ウエイトレス3、4名)
   旅館は、「笠森電気温泉」

  遊園地、動物園
   ブランコやすべり台の遊具(廃止後も放置されていたらしい)などがあった小遊園地や
   動物園(くじゃく、さる、くま、九官鳥など)がありました。
 
                                    参考:「WALK IN 長南・びっくり箱2」(長南町教育委員会)

6.南総鉄道宣伝用うちわ
写真の扇子は、笠森寺駅が開業して翌年の1934年
(S9 )に配布されたうちわです。

また、バス部門については、鶴舞までの路線が記載
されているようです。

これは、長南町で発見された当時を知るうえで大変
貴重な資料です。おそらく南総鉄道についての書籍、
サイトでは、本邦初の公開だと思われます。

        出展: 長南町郷土資料館所蔵/許可を得て転載

 各写真をクリックすると、拡大表示されます。








7.廃止に至る原因
現在も茂原−鶴舞町間のバスの輸送は1日数本です、その程度の輸送量なので、
採算が取れなかったようです。(乗客は、1日1駅あたり平均12名)

当初目論んだ、笠森寺の参拝客も少なく採算が取れない状況が続きました。
また、牛久までの延伸についても牛久まで平坦なコースが取れず、山間部のコースと
なってしまいました、それは有力な株主を考慮したためであり、莫大な工事費の調達が
不可能でした。
  国の重要文化財でもある笠森寺
                            (岩の上に建っています)
南総鉄道としても以下の打開策を施したそうですが、結局焼き石に水の状態でした。
最後は、給与が支払えず従業員が社長宅に押しかける有様でした。 

 ・駅を停留所(無人化)へ格下
 ・貨物営業の開始したが、運ぶものがほとんどなかった。
 ・笠森寺に遊園地建設
 ・燃料を石炭から薪に変更(資金難で石炭が買えない)

1939年(S14)に地方鉄道鉄道法営業廃止を申請、鉄道部門廃止され、残ったバス部門は
笠森自動車として存続しましたが、やがて袖ヶ浦自動車(現小湊バス)に買収されてしまいました。
これにより、南総鉄道株式会社は短い歴史を閉じました。

余談ですが、鉄道廃止後切符は焼却されずに捨ててあったので、近所の子供達がメンコに
して遊んだそうです。

8.南総鉄道開業に関わる謎
南総鉄道衰退について、長南町郷土資料館の学芸員の方よりおもしろい話が聞けました。

小湊鉄道「里見駅」には、今でも砂利採取線跡が残っています、その採掘権と輸送がかつて
小湊鉄道の財源を潤していたことが白土さんの「ちばの鉄道一世紀」に書かれていますが、
「長南町史」によると南総鉄道もこの砂利輸送での利潤を考えていたかのような記述があります。

町史の記述では「小湊鉄道に連結させて万田野の砂利輸送を主体に伸びることをねらって…」と
あります。当初計画されていた鶴舞ルートは有力株主が鶴舞にいたためにを選択せざるを得なかった
ということですが、それでは長いトンネルを設けて急勾配を避けるということも出来ず、予定通り
このルートで砂利輸送をはじめた場合、急勾配が重い砂利輸送にとって、相当な障害になってしまった
ことでしょう。果たしてそのような計画が実在したのかどうか。

なぜ開業にあたって長南の特産品である.「むしろ」の輸送需要を見込んでいなかったのかという点です。
「むしろ」の輸送の主力が人車から自動車になってからも茂原駅がむしろ集積のターミナルであったことは
基本的には変わっていなかったようであり、それならば、Rail to Railで国鉄に乗せられることをウリにすれば、
その需要をかなり取り込めたと思われます。

なぜか南総鉄道は旅客輸送だけで営業をはじめ、後年になって旅客の赤字対策として貨物営業を
はじめています。自動車輸送が伸びてきていたとはいえ、当時はまだまだ鉄道の時代であったので、
南総鉄道の経営戦略については、首を傾げざるを得ません。

このように南総鉄道の経営方針には不可解な部分あり、廃止を早めたような気がします。

参考文献として、1932年(S7)に南総鉄道(株)が発行した『上総笠森観音の新霊験』(風戸勝三郎著)に
沿線案内、社長の式辞や談話が載っております。この本は、現在千葉県立中央図書館の蔵書にあります。

現在の廃線跡を歩く
営業期間が短く、だいぶ時間が経ったいるため、遺構という遺構はほとんどありません。
しかし、かつてのトンネルは拡張され、国道409号線のトンネルになっています。
先日、奥野周辺を通りましたが田んぼだけで、ぽつんとバス停があるだけで
寂しいところでした。こんな所に鉄道があったと思えないほどです。

詳しく探索したい方は、下記の書籍が参考になります。

 ・鉄道廃線跡を歩く〈2〉JTBキャンブックス
 ・トワイライトゾ〜ンManual5 ネコ・パブリッシング

また、千葉情報館様の廃線跡を歩くをご参照ください。

参考文献:
  RailMagazine200号(2000年5月)
  鉄道ピクトリアル141号(1963年2月)
  ちばの鉄道一世紀
  トワイライトゾ〜ンManual5
  レイル4号(1979年月)
  千葉鉄道管理局史
  鉄道廃線跡を歩く〈2〉
  人が汽車を押した頃

ご協力:
  茂原市美術館・郷土資料館
  長南町郷土資料館
  加悦町役場企画情報観光課
  国書刊行会
                 (敬称略)



 【2006/10/1訂正分について】
  茂原市美術館・郷土資料館の学芸員様より、下記のご指摘がありましたので修正いたしました。

 (引用)
  「外房雑記録 廃線になった鉄路 南総鉄道 1.人車・南総鉄道の歴史の3行目に「庁南町長岡」とあるのは「庁南町長南」の
  間違いであることが判明しましたので、お知らせしておきます。

  白土貞夫さんの鉄道ピクトリアルの記事に、「庁南町長岡」との記載が見られますが、原典の『長生郡郷土誌』には「庁(旧字)
  南町長南」と記載されており、明らかに誤植です。これが安保さんの記事では「主産地の長岡地方」となってしまい、多くの人に
  誤解をあたえる結果になったようです。


1909年 (M42) 茂原−庁南町長南間(現長南町間)に人車軌道の営業開始。
1925年 (T14) 茂原駅−市原群鶴舞町(現南総町)間に地方鉄道鉄道法により蒸気鉄道の
免許を取得。
1926年 (T15) 南総鉄道株式会社が設立。
1930年 (S5) 茂原−笠森寺間の営業開始。(11.2km)
1933年 (S8) 笠森寺−奥野間の営業を開始。(1.0km)
1939年 (S14) 地方鉄道鉄道法営業廃止を申請、鉄道部門廃止。
1944年 (S19) バス部門、小湊バスに統合。 
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