1930年 (昭和5年) 8月1日に起点となる房総線 (後の房総東線、現在の外房線) の茂原駅から南総鉄道線の笠森寺駅 (長生郡長南町) までの一部区間が開業しました。その後、奥野駅 (市原市) まで延伸されましたが、1939年 (昭和14年) に経営不振により南総鉄道線はわずか8年弱で廃線となりました。当サイトでは、南総鉄道の歴史や唯一の路線であった南総鉄道線の紹介や使用された車両についても解説いたします。
■南総鉄道開通前の茂原駅周辺の交通インフラについて 1897年 (明治30年) 4月17日、千葉県茂原市 (当時は茂原町) に房総鉄道 (株) (後に帝国鉄道庁により国有化され、現在の外房線の源流) によって、房総線茂原停車場 (現在の外房線茂原駅) が開業し、東京方面への鉄道が開通しました。(茂原市の概要については、特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内の「三井東圧化学専用線が存在した工業都市「千葉県茂原市」」で紹介)
南総鉄道は、茂原駅から内陸部の長生郡長南町 (旧名は、庁南町) を経由して、市原市方面への鉄道でしたが、南総鉄道が開通する前に、旅客や特産品の藁工品 (わらこうひん) や米などの輸送の需要も高かった長南町方面の交通インフラとして乗合馬車 (茂原駅〜長生郡長南町〜夷隅郡大多喜町) や人車軌道である「県営庁南茂原間人車軌道」 (茂原駅前〜長生郡長南町) が先に開通していました。
なお、房総鉄道や乗合馬車、県営庁南茂原間人車軌道については、特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内の「外房線の中核をなす茂原駅と交通ネットワークの発達」、茂原駅での貨物輸送については「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」で詳しく解説しています。
■南総鉄道の開業までの歴史について 1909年 (明治42年) に開通した県営庁南茂原間人車軌道は、長南町までの道路が整備されたことで、旅客や貨物輸送は乗合自動車やトラック輸送に取って代わられていきました。
また、全国的にも大正から昭和初期にかけて第二次私鉄ブームがあり、同じ千葉県内でも近隣では市原市と夷隅郡大多喜町を結ぶ小湊鉄道 (五井駅〜上総中野駅) や東金市と山武郡九十九里町を結ぶ九十九里鉄道 (東金駅〜上総片貝駅 / 現在はバス事業のみ) が開業しており、時代遅れとなった人車から蒸気機関による新たな鉄道が求められていきました。
南総鉄道 (株) の設立 1925年 (大正14年) 9月3日に地方鉄道鉄道法による、鉄道省房総線 (後の房総東線、現在の外房線) の茂原駅から市原郡鶴舞町 (後の南総町、現在の市原市) 間による蒸気鉄道の免許を取得し、1926年 (大正15年) 9月3日に資本金43万8,750円 (現在の価値で約3億3,230万円※) で南総鉄道 (株) が設立され、社長は地元の名士である糸井玄氏、本社は長生郡茂原町 (現在の茂原市) の藻原寺の参道付近に設置され、県営庁南茂原間人車軌道は廃止されました。なお、南総鉄道本社は、後に笠森寺 (笠森観音) 付近の長生郡水上村笠森寺下 (現在の長生郡長南町笠森) に移転しています。
小湊鉄道との接続計画 南総鉄道は小湊鉄道との接続を目指し、当初は市原市にある小湊鉄道の上総鶴舞駅 (旧名は、鶴舞町駅) への接続を予定していましたが、後に計画を見直し、免許取得時には同じ市原市にある小湊鉄道の上総牛久駅に変更しています。
当初、南総鉄道が発行していた観光パンフレット「南総鉄道沿線御案内」の路線図には、先行開業していた笠森寺駅から山間部を進み、鶴舞町 (後の南総町、現在の市原市鶴舞地区) の南部に設置した「鶴舞駅」を経由して、平蔵川沿いを北上し、明光寺の東を通り、小湊鉄道の鶴舞町駅 (現在の上総鶴舞駅) に至る経路が未成線として記載されていました。この経路の選定については、鶴舞町近郊に住む数人の有力な株主の意向があったとされています。
現在、この経路は小湊鉄道バスのバス路線 (茂原駅南口〜鶴舞駅) として運行されていますが、この区間の輸送人員は、平日には2往復、休日には1往復となっています。山間部を通る経路であるため、トンネルの掘削や橋梁の建設などで工事費用もかかり、採算が取れないことが容易に推察され、その後、小湊鉄道との接続駅は人口が多く、平坦な地形を通る上総牛久駅に変更されました。
上総牛久駅は現在でも小湊鉄道管内で最も利用者が多い駅となっており、外房線茂原駅と小湊鉄道線上総牛久駅間には小湊鉄道バスのバス路線 (茂原駅南口〜笠森〜牛久駅) が存在し、平日には6往復、休日には4往復が運行されています。また、これらのバス路線は南総鉄道線の廃線跡の一部を再活用した国道409号線を経由しています。 南総鉄道での砂利輸送計画 当時の小湊鉄道線の里見駅には、「里見砂利山線」として知られる砂利採取線 (現在は廃線) が接続していました。この引込線は通称「万田野線」とも呼ばれ、近隣で採取した砂利を輸送していました。小湊鉄道はこの砂利の採掘権と輸送によってかなりの利益を得ていました。
茂原駅を起点とする南総鉄道も、砂利の需要を考慮して小湊鉄道経由での砂利輸送で利益を見込んでいたようです。南総鉄道の砂利輸送については長南町史や市原市史では簡潔な記述しか見られず、具体的な理由は言及されていません。しかし、茂原市近郊には砂利を採取できる川などがなかったため、道路の舗装やコンクリートの材料などの建築資材として需要が高かったと考えられます。戦前の茂原市を通る現在の国道128号線や市内の道路は未舗装でしたが、戦後に茂原市は海軍茂原飛行場跡のコンクリート滑走路を撤去し、そのコンクリート片を粉砕して砂利の代わりに道路の舗装に再利用しました。(茂原飛行場については、廃線・廃止になった鉄路「旧海軍「茂原飛行場」と軍用引込線」、特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内の「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」で解説)
このような事情から、首都圏でも主要な貨物駅であった茂原駅には毎年大量の砂利が鉄道輸送され、南総鉄道線が部分開業する前の1927年 (昭和2年) の実績では到着貨物の17%を占める3,159トン、南総鉄道線廃止後から26年後となる1965年 (昭和40年) でも当時茂原駅の貨物側線に接続していた野口産業専用線で茂原駅全体の到着貨物の1%に相当する1,000トン (砂利・セメント) が鉄道輸送されており、南総鉄道は砂利輸送を会社の事業の柱の一つとして考えられたと推測されます。(茂原駅の貨物輸送については、特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内の「貨物駅としての外房線「茂原駅」の歩み」、「専用線所管駅「茂原駅」と三井東圧化学専用線について」で詳しく解説) 南総鉄道の開業に向けての敷設工事 第1期工事 (房総線茂原駅〜南総鉄道線笠森寺駅) として、茂原駅から笠森寺駅間を着工しましたが、資金難により工事が遅延し、そこで工事費用を抑えるため前述の「県営庁南茂原間人車軌道」の工事を行った、同じ千葉県内にある千葉市や習志野市津田沼を拠点としていた日本陸軍の鉄道連隊が演習を兼ねて協力しました。
会社設立から3年5ヶ月後の1930年 (昭和5年) 2月8日に茂原駅から笠森寺駅間の11.2kmが開通し、2両の気動車で8月1日より旅客営業を開始し、1931年 (昭和6年) に奥野駅への延伸を見越して1両を増備し、1933年 (昭和8年) 2月1日に、笠森寺駅から奥野駅間の1.0kmが開業しました。
開業時の駅一覧 (読み) 茂原駅 (もばら / 房総線の接続駅) - 上総高師駅 (かずさたかし) - 本茂原駅 (ほんもばら) - 藻原寺駅 (そうげんじ) - 上茂原駅 (かもばら) - 須田駅 (すだ) - 豊栄駅 (とよさか) - 千田駅 (せんだ) - 長南駅 (ちょうなん) - 上総蔵持駅 (かずさくらもち) - 笠森寺駅 (かさもりじ)
南総鉄道開通記念の団扇 以下の写真は、南総鉄道線が1934年 (昭和9年) に笠森寺駅から奥野駅へ延伸開業した翌年に、宣伝目的で作製し配布していた団扇です。この団扇は長南町で発見され、長南町郷土資料館の許可を得て、2000年 (平成12年) 9月に本邦初公開として掲載させて頂きました。
南総鉄道謹製のこの団扇には、名所である笠森寺 (笠森観音) の紹介とともに、南総鉄道の鉄道部門とバス部門の路線図が掲載されています。当初、南総鉄道線の終着地として計画されていた鶴舞町 (現在の市原市鶴舞地区) にはバス部門のバス路線も確認でき、現在でも茂原駅から蔵持 (上総蔵持駅跡付近) を経由して、上総鶴舞駅まで小湊鉄道バスが運行されています。
■南総鉄道の駅 (停車場) について 1935年 (昭和10年) 12月の南総鉄道線の時刻表では、駅は全部で16駅あり、茂原駅から笠森寺駅間は11往復、笠森寺駅から奥野間は2往復でした。全線乗車すると33分かかり、運賃は31銭 (現在の価値で約273円※) でした。 廃止直前の駅及び、停留所一覧 (読み) 茂原駅 (もばら / 房総東線の接続駅) - 上総高師停留所 (かずさたかし) - 本茂原駅 (ほんもばら) - 昌平町停留所 (しょうへいちょう) - 藻原寺駅 (そうげんじ) - 箕輪学校前停留所 (みのわがっこうまえ) - 上茂原駅 (かもばら) - 須田停留所 (すだ) - 米満停留所 (よねみつ) - 豊栄駅 (とよさか) - 千田停留所 (せんだ) - 長南元宿停留所 (ちょうなんもとじゅく) - 長南駅 (ちょうなん) - 上総蔵持停留所 (かずさくらもち) - 深沢停留所 (ふかさわ) - 笠森寺駅 (かさもりじ) - 稚児関停留所 (ちごせき) - 奥野駅 (おくの)
南総鉄道線の茂原駅と笠森寺駅 南総鉄道線の茂原駅は、房総線 (後の房総東線、現在の外房線) の茂原駅の貨物側線と共用で、房総線茂原駅の上りホームに発着していました。
また、南総鉄道線笠森寺駅には売店があり、地域の名物である柿ようかんやラムネ、煎餅、おもちゃの刀、そして10粒5銭 (現在の価値で約46円※) または20粒10銭 (現在の価値で約23円※) で販売されていたキャラメルなどが販売されていました。駅には車庫もあり、藻原寺の参道付近から移転してきた南総鉄道の本社が併設されていました。建物は2階建てで、1階は事務所、2階は催事場として利用されていました。芝居の上演や映画の上映なども行われ、正月には書初めの展示も行われていました。
南総鉄道線の笠森寺駅が最寄り駅となっている笠森寺は、通称「笠森観音」とも呼ばれ、大岩の上にそびえる「笠森寺観音堂」は、日本で唯一の四面懸造りであり、現在は国指定の重要文化財となっています。また、古くから「坂東三十三観音」の第31番札所としても知られており、かつては房総線 (後の房総東線、現在の外房線) より蒸気機関車が牽引する客車列車が御開帳の時期に乗り入れ、観光地として発展しました。(笠森寺の詳細については、特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内の「外房線の中核をなす茂原駅と交通ネットワークの発達」の「明治末期から昭和初期の交通インフラ」で紹介)
そのため、笠森寺駅周辺には、参拝客向けに「楠美」「大正館」「安藤」「えびすや」といった飲食店や、「笠森電気温泉」という旅館があり、3、4人のウエイトレスが勤務するカフェなどもありました。さらに、ブランコやすべり台などの遊具が備えられた小さな遊園地や動物園もあり、くじゃく、さる、くま、九官鳥などが飼育されていたそうです。
■南総鉄道で使用された車両について
■南総鉄道の終焉 南総鉄道線の部分開業から6年後の1936年(昭和11年)には、南総鉄道 (18駅) の1駅あたりの乗客数は平均12人であり、年間の乗車者数は8万人でした。一方、接続予定の小湊鉄道 (16駅) では1日あたり平均44人、年間では25万4千人、同じ外房エリアに位置する軽便鉄道の九十九里鉄道 (6駅、現在はバス部門のみ存続) は1日あたり平均84人、年間では18万5千人、そして銚子鉄道 (10駅、現在の銚子電気鉄道) は1日あたり平均119人、年間では43万4千人の乗客がありました。ちなみに、房総東線 (21駅、現在の外房線) の1日あたりの平均乗客数は379人であり、年間では290万3千人に達していました。 このことから、南総鉄道は当時の千葉県内の鉄道では利用客数が最も少なかったと考えられます。沿線に人口の多い地域が限られていたため、長南町の長南駅では多少の乗降客があったと推測されますが、名所である藻原寺 (藻原寺駅) や笠森寺 (笠森寺駅) への参拝客だけでは経営が厳しかったようです。当初の計画である笠森寺駅から小湊鉄道の上総牛久駅への延伸についても、笠森寺駅から稚児関駅 (稚児関停留所) の間にある約82mとなるトンネル工事の資金調達に苦労したと思われ、笠森寺駅から2駅分の奥野駅までの約1kmとなる延伸開業には、3年もの歳月を要しました。
南総鉄道は収益を確保するために、笠森寺駅周辺を観光地化し、前述の通り温泉旅館やモダンなカフェなどを設置して集客力を高めることを試みました。さらに、経営の合理化として駅を停留所 (無人化) に格下げし、蒸気機関車や貨車を購入して貨物営業を開始しました。 しかし、明治の人車時代は長南町から多くの藁工業や農作物が茂原駅に鉄道輸送されていましたが、昭和初期には貨物自動車 (トラック) が普及しており、また南総鉄道線の開業時から旅客輸送だけで貨物営業は行っていなかったため、1936年(昭和11年)の貨物取扱量の実績では小湊鉄道が3万8千トンに対して、南総鉄道では到着貨物は無く、発送貨物がわずか2千トンとなっており、鉄道での貨物営業は需要がほとんどなく、南総鉄道は深刻な資金難に陥りました。蒸気機関車の燃料である石炭が購入できず、薪で代用せざるを得ない状況に至り、給与の支払いも滞り、従業員が社長宅に押し寄せた逸話が残されています。 1938年 (昭和13年) 12月8日、南総鉄道はバス部門に注力するため、会社名を「南総鉄道 (株)」から「笠森自動車 (株)」に変更し、地方鉄道法に基づき、鉄道営業の廃止を申請しました。翌1939年 (昭和14年) 2月28日をもって、南総鉄道線は全線廃止となりました。ついに小湊鉄道線への接続は実現せず、南総鉄道線は短い歴史に幕を閉じました。なお、笠森自動車は1943年 (昭和18年) 12月16日に、現在の小湊鉄道バスの源流である袖ヶ浦自動車 (株) に買収されました。
余談ですが、鉄道部門廃止後に切符は焼却されずに駅周辺に散乱していたため、近所の子供たちがメンコにして遊んだそうです。
■南総鉄道の廃線跡について 南総鉄道 (株) の南総鉄道線は営業期間が短く、廃線からかなりの時間が経過しているため、区画整備などによりほとんどの遺構が消失しています。しかし、かつてのトンネルは拡張され、国道409号線のトンネルとして再利用されています。先日、奥野駅跡周辺を通りましたが、周辺には民家などがほとんどなく、寂しい雰囲気で、ぽつんとバス停があるだけでした。ここにかつて鉄道があったとは思えない場所でした。
南総鉄道の南総鉄道線の廃線跡を探索したい方は、以下の書籍が参考になります。
■南総鉄道 (株) 略史
RailMagazine / 鉄道ピクトリアル / ちばの鉄道一世紀 /トワイライトゾ〜ンManual / レイル / 千葉鉄道管理局史 / 鉄道廃線跡を歩く / 人が汽車を押した頃 / 市原市史 / 長南町史 / 千葉県史 ご協力: 茂原市美術館・郷土資料館 / 長南町郷土資料館 / 加悦町役場企画情報観光課 / 国書刊行会 |