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廃線・廃止になった鉄路
旧茂原飛行場と軍用引込線 〜 茂原駅を起点とした、旧日本海軍の引込線 〜

外房線茂原駅の北東には、かつての三井東圧化学 (株) の主力工場である三井東圧化学 (株) 千葉工業所がありました。現在は三井石油化学工業 (株) と合併し、化学工場というよりも三井化学 (株) の研修施設として位置づけられています。

この三井化学 (株) 茂原分工場の東側には通称「1,000メートル道路」と呼ばれる直線道路が南から北へ伸びています。


実は、この道路は戦時中に旧海軍省施設部により設置された「茂原飛行場」の滑走路跡地が転用されています。かつてこのエリアにはコンクリート滑走路を備えた「茂原海軍航空基地」があり、茂原駅東口から茂原中学校付近まで、「茂原海軍航空基地専用線」という名称の鉄道引込み線が設けられていました。

1947年 (昭和22年) 茂原飛行場跡地
中央に見える太い滑走路が、1,000メートル道路に転用
国土地理院「茂原」(昭22)

さらに、茂原機能クリニック (現在のおゆみの中央病院茂原クリニック) の前の道路は、かつて「東郷海軍道路」として知られており、現在は県道293号茂原環状線の一部となっています。この道路は茂原飛行場を迂回するために建設されました。道路の西側は茂原飛行場 (茂原海軍航空基地) の敷地とされ、かなり広大な面積を占めています。

【お知らせ】
このコンテンツは、2006年 (平成18年) 2月に公開された旧サイトの内容を一部加筆や修正を施したものであり、近日中に最新の調査結果に基づく大幅なリニューアルを予定しています。

なお、最新の「茂原飛行場」に関する情報は、2024年 (令和6年) 1月に公開した特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内の以下のトピックに補足情報として掲載しております

東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」の「茂原市の熱意実る、東洋高圧工業千葉工業所 (茂原工場) の誘致」(旧海軍茂原飛行場跡地の自衛隊基地化反対運動)

ミニコーナー 「戦後の民間航空発祥の地」となった旧海軍茂原飛行場



茂原飛行場 (茂原海軍航空基地)の建設

現在、茂原海軍航空基地 (茂原飛行場) の跡地の大部分は、前述の三井化学茂原分工場の敷地となっています。戦前、茂原市 (旧称は、茂原町) に海軍茂原飛行場が設置される前は、1935年 (昭和10年) 1月に設立された日本と満州 (日本の傀儡国家、現在の中国東北部) の合弁会社「太平洋航空 (株)」により、ツェッペリン型飛行船による国際航路網が構想され、この巨大飛行船の離着陸場として、この場所に太平洋航空の茂原飛行場の建設が予定されていました。(詳細については、特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内のミニコーナー「茂原飛行場から世界へ、幻の「国際飛行船航路網」計画」で解説)

千葉県茂原町に新しく空の港
東京朝日新聞 (現・朝日新聞)
1914年 (大正3年) 茂原町周辺
大日本帝國陸地測量部 五万分の一「千葉」(大3)
桃四角は後の海軍茂原飛行場、桃丸は現在の新茂原駅

1939年 (昭和14年) に第二次世界大戦が勃発し、1941年 (昭和16年) には太平洋戦争が開戦し、その後、1942年 (昭和17年) 頃には海軍は九十九里浜沿岸に近づく米国空母の艦載機などから首都防衛の観点から房総東線 (現在の外房線) の茂原駅から現在の茂原中学校付近まで鉄道引込線を敷設し、茂原飛行場 (茂原海軍航空基地) の建設が始まりました。

1944年 (昭和19年) 海軍茂原航空基地「茂原飛行場」
大日本帝國陸地測量部「茂原」(昭19) 加筆

茂原飛行場の規模については、「茂原市史」によれば、南は富士見公園 (茂原市営野球場) から、北は茂原工業高校 (現在の茂原樟陽高等学校、旧茂原工業高校校舎跡地) まで、東は萩原小学校から、西は東中学校までの範囲に及び、総面積は240ヘクタール (東京ドーム約52個分) と非常に広大でした。

海軍茂原航空基地「茂原飛行場」の設置エリア
(オレンジの範囲は、大まかな飛行場の地域を示しています)

また、現在の萩原小学校 (以前は、東京農業大学茂原分校) がある場所には海軍252航空隊の本部が設置され、茂原中学校の場所には兵舎が建設されました。(戦後、それぞれ校舎として転用されています)

当時の茂原中学校
当時の東京農業大学茂原分校
<AI Colorized> (画像出典:茂原市史)

当時、海軍252航空隊の本部エリアと飛行場エリアの間を流れる阿久川には軍関係者専用と思われる橋梁 (人道橋) が架けられており、下流側に位置する現在の町保橋との間には旧町保橋が架けられていました。

旧・茂原飛行場と茂原海軍航空基地専用線
(水色の実線は戦後に整備された道路)
国土地理院「茂原」(昭33)加筆

戦後、県道138号正気茂原線の新設とともに、現在の位置に町保橋として新設されました。茂原農業高校 (現在の茂原樟陽高校) の正門前の道の東側を見ると、三井化学茂原分工場側の土手に、「航空隊本部エリア」と「飛行場エリア」との間にかけられた橋梁の土台と思われる人工物が残っています。

茂原樟陽高校側からの撮影、
中央に見える構造物が橋脚跡と思われます
(橋脚跡)
(2000年 筆者撮影)
(※:東京ドーム4.67ヘクタールで換算)


戦後の茂原飛行場について

戦後、旧茂原飛行場の滑走路が一時期残存していたため、1950年 (昭和25年) 6月にGHQ (連合国軍総司令部) による飛行禁止が解除された際、日本航空 (JAL) によって戦後初の民間パイロットの訓練が行われ、旧茂原飛行場は「戦後の民間航空発祥の地」となりました。しかし、朝鮮戦争時には米軍基地となる可能性や、当時の防衛庁 (現在の防衛省) の方針により航空自衛隊基地となる恐れがあったため、茂原市によって取り壊されました。

旧海軍茂原航空基地 (左下には富士見公園野球場が造成中)
<AI Colorized> (画像出典:茂原海軍航空隊調査報告書)

その後、茂原飛行場跡地の多くは農地として転用されましたが、特集「工業都市"茂原"と三井東圧化学専用線のすべて」内の「東洋高圧工業 (三井東圧化学) 千葉工業所の誕生」で解説した通り「東洋高圧工業 (株) 千葉工業所」(後の三井東圧化学千葉工業所、現在の三井化学茂原分工場) を含む民間企業が誘致され、新たに県道などの整備が行われ、現在では農地の多くが新興住宅地に変わっています。



現在の「茂原海軍航空基地専用線」の廃線跡を歩く


地図上の赤い点線は茂原海軍航空基地専用線の敷設経路を示しており、廃線後は線路跡にはサンシティ町保商店会 (旧称は、銀座東商店会) の商店が建ち並び、周辺は住宅地となっています。専用線の痕跡はほとんど見当たりません。

また、ピンクの点線は戦前から存在した道路を示し、青い点線は戦後に新設された「県道84号茂原長生線」や「県道138号正気茂原線」を表しています。

【写真A】
正面に「茂原駅前東口」交差点があり、その東側の角には薬局があり、その上を線路が通っていました。現在、右側に見える各店舗は廃線後に新たに出店されました。

【写真B】
「サンシティ町保通り」の中央分離帯には数本の木が立っていますが、左側が旧道であり、右側は戦後に拡張された新道になります。

【写真C】
左側には「茂原総合市民センター」があり、正面の五差路は「県道84号茂原長生線」です。

【写真D】
右側に見える店舗は廃線跡に建っています。正面の十字路は、「県道138号正気茂原線」です。

【写真E】
カーブの始まりの場所に茂原中学校の正門が見えます。


茂原飛行場と戦争

戦争の被害者 (軍事至上主義の傷跡)

飛行場建設予定地の住民は、「移転命令」による強制退去 (5地区、120軒) を受けました。

現代では考えられないことですが、これは軍からの命令であり、代替地や補償金はほとんど与えられず、住民の方々は自ら新しい住居を探し、離れ離れになり、移転先での嫌がらせなどに苦しめられました。

さらに、この移転命令には学校や寺院なども含まれていました。東郷国民学校 (現在の東郷小学校) もその場所から移転せざるを得ませんでした。

鉄道の戦争被害

外房地区の鉄道も攻撃の標的となり、茂原駅の隣に位置する八積駅も機銃掃射を受け、近年建て替えられる前では、その痕跡を柱に見ることができました。

最大の悲劇は、1945年 (昭和20年) に総武本線の成東駅構内で停車していた弾薬を積んだ貨物列車が攻撃を受け、火災が発生しました。激しい攻撃の中、将校や駅員を含む計42名が消火活動を行いましたが、間に合わず、駅と周辺の民家を守ろうと貨車を機関車で移動させようと試みましたが、大爆発が起こりました。駅舎およびホームが完全に破壊されました。この爆発で亡くなった駅員には14歳の少年駅員や、若い女性駅員など20歳未満の駅員が9名含まれています。現在、この出来事を記念した石碑が駅に建てられています。

神風特別攻撃隊 (しんぷうとくべつこうげきたい) の悲劇

戦争末期には、神風特別攻撃隊 (特攻隊) として知られる爆弾を搭載した震洋や魚雷を操縦し、敵艦に体当たりする作戦が実施されました。神風特攻隊として知られる軍用機による特攻は、茂原飛行場からも神風特別攻撃隊や第三御楯隊が出撃しました。

(公開日:2006.02.05/更新日:2024.03.31)

参考文献:
孫に伝える 爺の戦争体験 (自費出版) / ちばの鉄道一世紀 / 千葉鉄道管理局史

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