廃線になった鉄路1 〜なぜ、そこに線路は敷かれたのか?

関東天然瓦斯開発(株)専用線 [合同資源産業専用線]
かつて、まだ茂原駅が地上駅だった頃、様々な専用線が敷かれていました。

その中で、当時のエネルギー事情を反映した専用線が茂原駅から、(現)関東天然瓦斯開発(株)
までの600mの間に敷設されていました。(下記、線路図参照)

これはガソリンが高騰し、気動車の運行に甚大な影響が出ていたために気動車の燃料をガソリン
から、同社汲み上げている天然ガスに替え、列車の本数を増やし利便性向上を図るものでした。

1973年(S48) 茂原駅線路図
1.当時の状況
 戦前、1941年(S16)2月より、燃料に天然ガスを使った事例は、房総東線(外房線)の支線の
 木原線(いすみ鉄道)で、細ぼそと運行していた程度でした。(国鉄キハ41000形改)

 戦後になり、通勤事情が悪化し、死傷者がでる最悪なものでした。
 千葉−茂原間については、当時の時刻表によると1時間に1本あるかないかで、それゆえ
 乗車率は、198%(国鉄平均140%)に達し、ついに通勤時間帯の上下線の乗車率は、
 250%以上という殺人的な混雑ぶりとなっていました。


2.ガソリンに代わる燃料として
 このような混雑を解消すべく、ついに1949年(S24)に地元茂原市を中心とした自治体が
 立ち上がり、「房総東線ガスカー運転促進連盟」発足しました。

 当時の運輸大臣、東京交通局長、千葉鉄道管理局長など陳情し、国鉄も現地に東京交通局長、
 千葉鉄道管理局長を派遣し、現状を視察させました。

 当時、天然ガスは他の燃料と違い、安定供給が可能でした。しかも茂原・大多喜地区は天然ガスの
 産地、関東天然瓦斯開発(株)が汲み上げている天然ガスを燃料とした気動車を運行し、混雑解消を
 目指そうとした訳です。

 また、同年11月より米軍(進駐軍)からのガソリンの配給量が半分になり、とうとう国鉄は関東天然
 瓦斯開発株式会社に対して、天然ガスの供給を打診し、ついにガスカー(天然ガス動車)が誕生する
 こととなりました。

 当時木原線では、手作業で一本づつボンベに天然ガスを充填していましたが、これでは
 効率が悪いため、ガスカーを直接関東天然瓦斯開発(株)へ乗り入れ、直接充填する方法が
 とられ、1950年(S25)3月に茂原駅から、関東天然瓦斯開発(株)までの間に専用線を敷設
 工事が実施されました。 

 また、燃料を天然ガスに置き換える取り組みは、新潟方面でも実施されることになりました。

 

3.ガスカーへの改造
 1949年(S24)5月に国鉄新小岩工場で、国鉄キハ42000形をガスカー(42200形)へ改造の
 を行いました。特徴は、床下に21本又は、24本(1本:40リッター)ガスボンペが着いていました。

 その後、1950年(S25)4月13日〜15日に茂原-東金間、茂原-大原間、茂原-千葉間、
 千葉-木更津間で試運転が行われ、19日に最後の公式試運転が行われ、20日に正式に運行が
 開始されました。

 また、木更津方面の天然ガス供給は、容量250リットルボンベを18本搭載した天然ガス専用
 貨車(トキ5347)が作られ、茂原−木更津間をピストン輸送されました。

   ・国鉄 キハ41200形 (ガスカー)
     
 [1952年(S27)/旧大網駅]
          (中川浩一氏の許可を得て転載)

4.ガスカー(天然ガス動車)運行へ
 1950年(S25)4月20日、ついに「房総東線ガスカー運転促進連盟」の悲願は達成されました。
 当時の茂原駅には「祝 ガスカー開通」と横断幕がかかげられ、地元の期待は高いものでした。
 
 また、新聞各紙も、「房総一周もガスカーで」、「大多喜ガス更に充填所設置」、「人気者のガスカー」
 など、各紙紙面の見出しを賑わせました。

 そして、ガスカーは久留里線、房総西線(内房線)、木原線に各2両、東金線に1両配置されました。
 また、県内の私鉄、小湊鉄道、九十九里鉄道(廃止)も天然ガスに切り替えました。

 そして、鉄道に限らずバスも同年10月から、県内の小湊鉄道バス、九十九里鉄道バス、京成バス、
 都自動車、更に都内のバス会社までもが天然ガスに切り替えました。

   ・東金線を走るガスカー
       
 [1952年(S27)]
           (中川浩一氏の許可を得て転載)


  ※1両目がガスカー、2両目は付随車(動力を持たない車両)

5.エネルギー事情の好転、ガスカー終焉へ
 しかし、繁栄を極めたガスカーですが、1952年(S27)に国内のエネルギー事情が、好転しました。
 これは、米軍(進駐軍)の燃料統制が廃止されガソリンの配給と価格が自由化されたことによる
 ものでした。これにより安い軽油が入手しやすくなり、ガスカーの存在意義が失われて行きました。

 実は、天然ガスの値段は高かったのです。ガスカーが走り始めた1950年(S25)に、国鉄川越線で
 1キロ当たりの走行燃料が試算されていました。

  ・C11形蒸気機関車(石炭)  2.43円
  ・ディーゼルカー(重油)      1.65円
  ・ガソリンカー(ガソリン)     6.91円
  ・ガスカー(天然ガス)     11.70円

 更に機関の老朽化により、爆発の危険も発生したため、1952年(S27)中に全てのガスカー
 (キハ42200形)は、ディーゼルカー(キハ42500形)に改造されてしまいました。


6.残された専用線
 専用線跡ですが、関東天然瓦斯開発(株)のグループ企業である大多喜ガス(株)の1979年(S54)の
 会社案内パンフレットの航空写真には、一部の専用線が写っていました。
 また、関東天然瓦斯開発(株)の社史50年の写真にも写っていましたが、構内の充填施設は既に
 撤去されていました。現在、レール自体も撤去され、跡地は整備されています。


現在の廃線跡を歩く
 関東天然瓦斯開発(株)の工場は、茂原駅西口からタンクのある方向に歩いて、10分ほどの
 場所にあります。前出の大多喜ガス(株)の会社案内パンフレットの航空写真を元に廃線跡を
 探してみました。

 丁度東口の下り方面の駐輪場の辺りから分岐し、大きくカーブしながら駐車場、関東天然瓦斯
 開発(株)の厚生会館を抜け、野球場の前を通って構内に入っています。
 昔は野原でしたが、今は整備されています。廃線跡は、舗装されハッキリと分かります。

A地点   B地点
この辺から分岐し、前面の駐車場を抜け、
写真中央の建物(厚生会館)まで、大きく
カーブしていきます。

   茂原駅から、分岐したレールは丁度写真中央
   (門が開いている左のツツジの花壇)の厚生会館
   正面入り口まで伸びてきます。  

C地点   D地点
ここでハッキリと廃線跡がわかります。
奥の厚生会館から続く道路(右カーブ)の
植木と道路の境界辺りに線路があったと
も思われます。

 
  そして関東天然瓦斯開発(株)茂原鉱業所の
  構内へ線路は続いていきます。


<お願い>
 周辺はガスのタンク等が隣接しています、絶対に施設内にいらないようにしてください。
参考文献:
 社史50年史(関東天然瓦斯開発株式会社)
 会社案内パンフレット(大多喜ガス株式会社)
 キハ07ものがたり(上)(ネコ・パプリッシング)
 キハ41000とその一族(上)(ネコ・パプリッシング)

協力:
 関東天然瓦斯開発株式会社
    茂原鉱業所 総務部様


【現在、このコンテンツは『リニューアル準備中』です】
inserted by FC2 system